加速する諸改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 23:22 UTC 版)
「エストニアの独立回復」の記事における「加速する諸改革」の解説
ヴァリャスは第一書記就任直後から、エストニア民族文化の復興政策を矢継ぎ早に実行し、6月23日には最高会議が三色旗・ヤグルマギクと燕をエストニア国家のシンボルとして公認。10月19日にはモスクワ標準時に合わせられていたエストニア標準時の復活を決議した(導入は翌1989年3月末から)。8月30日には、タルトゥに1940年以来初めての商業銀行 (et) が開設された。 8月10月には、共産党機関紙『ラフヴァ・ハール』がソ連で初めて、当局が40年以上に渡って秘匿し続けてきた独ソ不可侵条約秘密議定書を公表した。同日の記事では、かつて条約の正当性を喧伝してヒルヴェ公園の集会を批判した歴史家ヘイノ・アルミャエ (et) 自身が、「ソ連が独ソ不可侵条約を締結したのは必要に迫られてのものではなかった」としてバルト諸国占領の正当性を揺るがす論を述べた。11月16日には、歌う革命を「連邦から離脱するという政治的誤り」と公言してきたブルーノ・サウル(エストニア語版)が閣僚会議議長から解任され、トーメに交代している。 同時期には、エストニア出身のソウル五輪ソ連代表金メダリスト、エリカ・サルミャーエとティート・ソック(英語版)が凱旋帰国した。2人はタリンでの歓迎集会で、自分たちが三色旗の下でメダルを受け取れなかった無念を語り、それを受けて人民戦線はエストニアオリンピック委員会(英語版)の再建を開始した。そして翌1989年1月14日、IOCには未認可ながら、48年ぶりにエストニアオリンピック委員会が再建された。4月1日にはエストニアが独自に国際トライアスロン連合へ加盟したが、モスクワはこれを黙認した。 1989年1月10日には、エストニア最高会議がソ連の予算制度に反して、共和国内での歳入をすべて共和国の歳入とする「課税法」を採択した。5月18日には、共和国に自国経済の管理権を与え、また土地の私有を許可する決議を採択している。7月27日に連邦最高会議はこれに応え、バルト三国に独立採算制への移行を認める決定を採択した。6月25日には民族遺産保存協会によって、かつての第一共和国大統領コンスタンティン・パッツの銅像が復元され、その除幕式には3万人が参列している。
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