加久藤城攻城戦
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伊東義祐は事前に人吉の相良義陽のもとに密使を送り、この合戦への援軍を約定させる。元亀3年(1572年)5月3日の夜中に、伊東祐安(加賀守)を総大将に、伊東祐信(新次郎)、伊東又次郎、伊東祐青(修理亮)を大将とした青年武士を中心とした3,000余の兵は、島津領との最前線に位置する小林城を出立する。 翌未明に飯野・妙見原に到着、ここで軍を二手に分け、一軍は島津義弘の居城・飯野城の抑えとして妙見原に留まり、もう一軍は伊東祐信と伊東又次郎が率いて、飯野城を横目に上江村から木崎原を抜け、義弘の妻子が籠る守兵50人ほどの加久藤城へ攻撃をしかけるべく進出した。 祐信はまず手始めに加久藤城周辺の民家を焼いて島津軍を挑発した。それにより加久藤方面の夜空が炎で赤く染まり、それを見た近臣により義弘は起こされる。だが、義弘はすでに飯野「三徳院」の盲僧・菊市を間者として伊東領内に送り込み、この情報を得ていたため対応は落ち着いていた。義弘は狼煙を上げさせ大口城の新納忠元や馬関田城などに急を知らさせる。そして、兵60人を遠矢良賢に与え加久藤城の救援にあたらせ、五代友喜の兵40人を白鳥山野間口に、村尾重侯の兵50人を本地口の古溝にそれぞれ伏せさせた。そして有川貞真に留守居を任せ、義弘自らも兵130を率いて出陣、飯野城と加久藤城の間の二八坂に陣を張る。 その後、祐信の隊は加久藤城へ侵攻を開始。事前に得ていた情報を元に、城の搦め手に通じる鑰掛口へと迫るが、夜の暗さと若い不慣れな将兵の勘違いにより、鑰掛の登り口にある樺山浄慶の屋敷を間違って攻撃した。樺山浄慶父子3人は上から石を投下し、更にあたかも多数の将兵がいるように見せかけつつ祐信の隊を攻撃、奮戦するも討ち取られる。祐信の隊はさらに搦め手へと向かったが、狭い隘路を押し進むことになり、かつ鑰掛口が断崖であったために思うように攻められず、大石や弓矢による攻撃に苦しめられる。そこへ加久藤城を守る川上忠智が城から打って出て突撃、狼煙により駆け付けた馬関田、吉田からの救援と遠矢良賢の兵による攻撃を受け、祐信の隊は退却を余儀なくされる。この一戦で、伊東杢右衛門や小林城主・米良重方(筑後守)が討ち取られた(異説あり)。 またその頃、真幸院に進出した相良軍500人は義弘が諏訪山の大河平に立てさせた幟を見て、これを島津の将兵と思い込みそのまま人吉へと引き返していた。
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