加久藤城攻城戦とは? わかりやすく解説

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加久藤城攻城戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 11:59 UTC 版)

木崎原の戦い」の記事における「加久藤城攻城戦」の解説

伊東義祐事前に人吉相良義陽のもとに密使送り、この合戦への援軍約定させる。元亀3年1572年5月3日夜中に、伊東祐安加賀守)を総大将に、伊東祐信新次郎)、伊東又次郎伊東祐青修理亮)を大将とした青年武士中心とした3,000余の兵は、島津領との最前線位置する小林城出立する。 翌未明飯野妙見原に到着、ここで軍を二手分け一軍島津義弘居城飯野城抑えとして妙見原に留まり、もう一軍伊東祐信伊東又次郎率いて飯野城横目に上江から木崎原を抜け義弘妻子籠る守兵50人ほどの加久藤城攻撃をしかけるべく進出した。 祐信はまず手始め加久藤城周辺民家焼いて島津軍挑発した。それにより加久藤方面夜空が炎で赤く染まり、それを見た近臣により義弘起こされる。だが、義弘はすでに飯野三徳院」の盲僧市を間者として伊東領内送り込み、この情報得ていたため対応は落ち着いていた。義弘狼煙上げさせ大口城新納忠元馬関田城などに急を知らさせる。そして、兵60人を遠矢良賢与え加久藤城救援にあたらせ、五代友喜の兵40人を白鳥山野間口に、村尾重侯の兵50人を本地口の古溝にそれぞれ伏せさせた。そして有川貞真留守居任せ義弘自らも兵130率いて出陣飯野城加久藤城の間の二八坂に陣を張るその後、祐信の隊は加久藤城侵攻開始事前に得ていた情報元に、城の搦め手通じる鑰掛口へと迫るが、夜の暗さと若い不慣れな将兵勘違いにより、鑰掛の登り口にある樺山浄慶の屋敷間違って攻撃した樺山慶父子3人は上から石を投下し、更にあたかも多数将兵がいるように見せかけつつ祐信の隊を攻撃奮戦するも討ち取られる。祐信の隊はさらに搦め手へと向かったが、狭い隘路押し進むことになり、かつ鑰掛口が断崖であったために思うよう攻められず、大石弓矢による攻撃苦しめられる。そこへ加久藤城を守る川上忠智が城から打って出突撃狼煙により駆け付けた馬関田、吉田からの救援遠矢良賢の兵による攻撃を受け、祐信の隊は退却余儀なくされる。この一戦で、伊東右衛門小林城主・米良重方筑後守)が討ち取られた(異説あり)。 またその頃真幸院進出した相良500人は義弘諏訪山大河平立てさせた幟を見て、これを島津将兵思い込みそのまま人吉へと引き返していた。

※この「加久藤城攻城戦」の解説は、「木崎原の戦い」の解説の一部です。
「加久藤城攻城戦」を含む「木崎原の戦い」の記事については、「木崎原の戦い」の概要を参照ください。

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