創設~10万ドルの内野
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 23:07 UTC 版)
「オークランド・アスレチックス」の記事における「創設~10万ドルの内野」の解説
フィラデルフィアは1830年代という古くから人々がタウンボール(ベースボールの原型)を楽しんでいた土地柄で、野球が普及し始めた1860年頃には、「アスレチック・ベースボール・クラブ」という強豪のアマチュアチームが活動し、ニューヨークやブルックリンのクラブに引けを取らない強さを誇っていた(フィラデルフィア・アスレチックス (1860-1876年)を参照)。1876年にチームが解散した後も、1882年にはアメリカン・アソシエーション(フィラデルフィア・アスレチックス (1882-1890年))に、1890年にはプレイヤーズ・リーグ(フィラデルフィア・アスレチックス (1890-1891年))にも同名のチームが誕生した。現在のチームは1893年に発足し、1901年に新興メジャーリーグとして誕生したアメリカンリーグに加盟した。チーム名はフィラデルフィアに本拠地を置くことが決まった際に上記チーム名を復活させたものである。 コロンビア・パークを本拠地とし、メンバーの多くは同じフィラデルフィアを本拠地としていたフィラデルフィア・フィリーズから移籍してきた選手で、発足1年目のチームとしては充実した戦力を誇っていた。特に看板選手だったナップ・ラジョイと、エースのチック・フレーザーの移籍の煽りを受けたフィリーズは弱体化し、以後長期にわたって低迷してしまうことになる。ラジョイはこの年打率.426と打ちまくり、アメリカンリーグの初代首位打者となった。翌1902年、移籍に絡む問題でフィリーズから訴えられたアスレチックスはラジョイをクリーブランドに放出、カブスにいたルーブ・ワッデルを獲得する。マックは奇行を繰り返すワッデルに手を焼いたが、その類いまれな奪三振能力を見抜いていた。アスレチックス移籍後のワッデルは6年連続リーグ最多奪三振、1905年のリーグ三冠投手(最多勝、最優秀防御率、最多奪三振)となるなど、1900年代のアスレチックスの主力投手となった。 1909年よりシャイブ・パークを本拠地とし、1909年から1914年は6年連続90勝以上でワールドシリーズ出場4回、ワールドチャンピオンに3回輝いた。マックが率いたメンバーは「10万ドルの内野陣」といわれた一塁手スタフィ・マッキニス、二塁手エディ・コリンズ、三塁手フランク・ベーカー、遊撃手ジャック・バリー。投手は殿堂入りコンビのエディ・プランク、チーフ・ベンダーが中心だった。 長く続くかと思われたアスレチックスの栄華は、選手の年俸高騰によりマックが緊縮財政に転換したことで、1915年に突如その終わりを迎えた。主力投手だったプランクとベンダーは、前年から運営されていたフェデラル・リーグへ放出され、チームの得点源だったエディ・コリンズもホワイトソックスへ移った。チームは機能しなくなり、アスレチックスは「前年リーグ優勝チームが次の年に最下位」という、不名誉な記録を作ることになる。
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