前身の施設
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1960年(昭和35年)8月、設楽町立田口小学校運動場下の田口字辻前32番地に設楽町郷土博物館が新築開館した。萩平の平松雅夫(内務官僚、田口鉄道取締役)によって寄付された建設費100万円、大名倉の伊藤正松から寄贈された考古学資料によって開館したものである。設楽町郷土博物館は2階建の洋風建築であり、1階が事務室・会議室・倉庫、2階が展示室だった。
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前身の施設(長崎国際文化会館)
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「長崎原爆資料館」の記事における「前身の施設(長崎国際文化会館)」の解説
前身は1955年に開館した長崎国際文化会館の原爆資料センターである。同会館は戦災復興に関する特別法”長崎国際文化都市建設法”(1949年成立)に基づき建てられた文化施設で、現在の原爆資料館のやや北側に位置していた。早稲田大教授を務めた佐藤武夫の設計でアメリカの国連本部ビルを模した、地上6階、地下1階建の鉄筋コンクリート製の建築物であった。爆心地を望む丘の上で眺望がよく、大きな窓を格子状に配置した、当時としては斬新な建築物であったため、市民や観光客に親しまれた。館内は2階から5階までが被爆資料の展示室、6階部分が図書室であった。同会館の資料は、1949年に爆心地近くに開館した旧長崎市原爆資料館より移設されたものであった。建物の老朽化に加え、展示スペースが手狭になったことから、被爆50周年事業として同会館は取り壊され、1996年に現在の長崎原爆資料館が開館した。 長崎国際文化会館 国際文化会館内の原爆資料室(1959年頃)
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