前半生、ヨハンネス帝臣下時代と最初のガリアでの戦役
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「アエティウス」の記事における「前半生、ヨハンネス帝臣下時代と最初のガリアでの戦役」の解説
少年期のアエティウスは宮廷に仕え、近衛隊(tribuni praetoriani partis militaris)へ入隊した。405年から408年の間、彼は西ゴート王アラリック1世の王宮へ人質として送られた。408年、アラリックはアエティウスを再び人質として戻すよう要求したが、アエティウスはフン王の元へ送られることになり、アラリックの要求は拒否されている。ギボンやその他の歴史学者は、西ゴート族やフン族の様な好戦的な部族に教育されたアエティウスは当時のローマに欠けていた軍事的な活力を与えられたと指摘している。 423年、西ローマ皇帝ホノリウスが崩御した。西方で最も影響力を有していたカスティノス (en) は第一書記のヨハンネス (en) を後継皇帝に選んだ。ヨハンネスは西ローマ帝国の出身者で、西ローマ帝国で疎まれていたテオドシウスの血も引いていなかったので、西ローマ帝国では人気のある皇帝となった。カイサレイアのプロコピオスは彼を「優しさと寛大さと恩恵とを兼ね備えた皇帝」と称賛した。ヨハンネスは伝統に従い東ローマ皇帝へ承認を求める使者を遣わしたが、東ローマ皇帝テオドシウス2世は幼い従弟のウァレンティニアヌス3世(ホノリウスの甥でもある)を西ローマ皇帝に擁立すべく、アスパル (en) 率いる遠征軍を組織させた。アエティウスは西ローマ皇帝ヨハンネスに宮殿監督(cura palatii)として仕え、ヨハンネスによってフン族へ助けを求めるべく派遣された。強力な軍隊を持たないヨハンネスは首都ラヴェンナに籠城したが、425年6月または7月に落城して他の大臣たちとともに捕らえられ、殺害された。それから程なくしてフン族の大軍とともにイタリアへ帰還したアエティウスは西方の権力がウァレンティニアヌス帝と母后ガッラ・プラキディアに握られていることを知った。アスパルとの戦闘の後にアエティウスはガッラ・プラキディアとの和解した。彼はフン族を帰還させてガリア軍司令官(comes et magister militum per Gallias)の地位を得た。 同年または翌426年、アエティウスはアレラーテ(現在のアルル)を包囲していた西ゴート族を撃破し、アクイタニアへ帰還させた。428年、彼はフランク族を打ち破り、占領されていたライン川沿いの領土の幾分かを回復した。429年に彼はマギステル・ミリトゥム(軍司令官)に昇進した。ガッラ・プラキディアの支持者であり当時最も影響力があったパトリキ・フラウィウス・フェリックス (en) (380年生誕。428年のコンスル。父は395年のプロコンスルを務めたエンノディウス(355年 - 395年以降))がマギステル・ミリトゥムの長官であったので、アエティウスは二人の副官のうちの一人であったとされる。だが、430年5月、アエティウスは自分を陥れようとしたとフェリックスを非難して、彼とその妻パドゥシア(383年頃または385年頃生誕)を殺害した。 フェリックスが死ぬと、アエティウスは、パトリキの称号を有してはいなかったが、マギステル・ミリトゥムの中での最有力者となった。同年、彼はラエティアでユートゥンゲン族 (en) を破り、アレラーテ近くで西ゴート族を撃破して指導者のアナオルスス(Anaolsus)を捕らえた。431年にノリクムでノリ族(Nori)に勝利した後にガリアへ帰還すると、スエビ族からの攻撃を訴えていたアクアエ・フラウィアエ (en) 司教ヒュダティウス (en) を迎え入れた。432年、アエティウスは再びフランク族を打ち負かして彼らとの和平を成立させると、ヒュダティウスをイベリアへ送り帰した。
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