冠位十二階制との対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/12 10:18 UTC 版)
「七色十三階冠」の記事における「冠位十二階制との対応」の解説
冠位十二階との関係について、古くは、冠位十二階第1の大徳が七色十三階冠第1の大織に、第2の小徳が第2の小織にというように、十二階と十三階が一対一に対応し、建武が加わっただけだと長く考えられていた。しかし黛弘道の論文「冠位十二階考」が出た1959年以降、冠位十二階の第1が七色十三階冠の第7にあたるとする理解が定説になった。七色十三階冠の上の6階は冠位十二階に対応するものがない新設の冠位で、残る7階(あるいは建武を除く6階)が冠位十二階を引き継ぐものということになる。 小錦以下の冠位の対応については、有力な二説が対立している。一つは黛の説で、冠位十二階の2階を七色十三階冠の1階に配当する。整然としているが、冠位十二階の大仁であったのが、後に冠位十九階の大山下になった薬師恵日の扱いに難が指摘されている。黛説では恵日は降格されたことになるが、書紀には恵日の失脚を匂わす記述がない。黛説では、薬師恵日は史書にない何かの理由で位を下げられたと考えるか、恵日は生まれが特に卑かったための例外とみなす もう一つの説は、小青まで一対一で対応させ、大黒・小黒に旧冠位を4つずつ統合したとする武光誠・増田美子の説である。増田説の根拠の一つはマエツキミ(大夫)層の対応にある。この時期の朝廷は重要問題を合議で決定しており、その合議に参与するものをマエツキミと呼んでいた。マエツキミは冠位十二階では大徳・小徳にあたると考えられ、ずっと下った天武天皇の時代には小錦以上が大夫であった。ならば小徳には小錦が対応することになる。また、1年前の大化2年(646年)に制定された墓制は、(1)小徳以上、(2)大仁・小仁、(3)大礼以下と三分されている。墓制にあらわれる徳と仁の間の大きな違いは、冠位制で大伯仙と小伯仙という文様の大きさの違いではなく、もっと目に見える錦冠と青冠の違いとして現われているともいう。さらにもう一つの傍証として、冠位十二階の色について有力な五行五色説によって大仁・小仁が青い冠としたとき、増田説なら七色十三階冠の大青・小青と符合し、七色十三階冠の大黒・小黒も冠位十二階の大智・小智の黒を継承したと説明できる。武光・増田説の難点は、下のほうの冠位をかなり強引に圧縮したと見える点にある。また、冠位制度の改正に、マエツキミ層の範囲を変える意味があったと考えることもできる。黛説支持の立場から、マエツキミの特別な職権が廃止された点に七色十三階冠制定の意義を見る論者もいる。
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