内発的発展論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/05 00:49 UTC 版)
1960年代後半になると、鶴見和子らとともに、水俣病の公害問題の実証研究に参加したことをきっかけに内発的発展論の研究を開始。従来までの文字化された資料をもとにした実証研究に対して、文字化される以前の事実、実体を徹底的に検討していった。その際に見出された方向性が、「伝統はそのままに存在するものではなく、あくまで解釈によって伝統として発掘され、確認され、意味づけられる。したがって、伝統そのものの基礎が人間の実際の生活や社会の中でどのように存在するのかを徹底的に確かめなければならない」というものであった。こうして、伝統が新しい外来的刺激でどう展開し、外来の比重がいかに重くなってくるかという過程を内発的発展論として研究し、従来の国際政治学の方向に加えて、社会学的な方向が加えられていった。 内発的発展論は、本来、近代的な高度成長経済や国家中心の政治に対する異議申し立ての性格をもつ。「内発的発展論の担い手は、その目指す価値および規範を明確に指示する。近代化論が“価値中立性”を標榜するのに対して、内発的発展論は、価値明示的である」(鶴見和子「内発的発展論の系譜」)というような思い切った問題提起が行われるのも、このためである。この内発的発展論は、その後、鶴見和子の友人で中国の社会学の基礎をつくった費孝通、江蘇省の小城鎮研究責任者の朱通華らとの10年に渡る日中双方での実証研究へと繋がり、宇野重昭・鶴見和子編 『内発的発展と外向的発展 現代中国における交錯』(東京大学出版会、1994年)として提起されている。
※この「内発的発展論」の解説は、「宇野重昭」の解説の一部です。
「内発的発展論」を含む「宇野重昭」の記事については、「宇野重昭」の概要を参照ください。
- 内発的発展論のページへのリンク