公的な反対
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/01/21 14:22 UTC 版)
「米英戦争に対する反戦運動」の記事における「公的な反対」の解説
北部の州はその産業がイギリスとの貿易に依存しており、その政治家はイギリスと戦争をする可能性に脅威を覚えた。議会の連邦党は宣戦布告後直ぐに結束して反対を唱えた。「下院議員諸君に訴える...イギリスとの戦争について」と題する文書が、下院の連邦党員36名中34名の署名入りで広く回覧され、この問題に関する連邦党の見解とされた。この中で、戦争を始めるために民主共和党が使った議会操作は非民主的であり「代議制の自由」に敵対するものであるとし、「海洋での商売」に対する攻撃への反応としての「陸の上の戦争」は正当化されず、効果的でもないこと、戦争はイギリスと戦争中(ナポレオン戦争)であるフランスとの関係も複雑にする危険性があること、戦争の準備が出来ておらず戦力も弱いアメリカでは、「侵略戦争が侵略される戦争になる」失敗が予測される、としていた。 連邦党員の中には戦争への協力を拒む者も現れた。マサチューセッツ州知事のケレイヴ・ストロングは戦争を支援するために州民兵を招集することを拒んだ。ストロングは州の権限に拘り、州民兵を招集できるのはアメリカ合衆国大統領ではなく、州知事のみであるという見解だった。この行動によって軍隊が志願兵を募る際の困難さが増し、戦争が長引くに連れて重大な問題となっていった。 しかし、連邦党は国の政策を変えるほどの力を持たなかった。戦争が長引くに連れて連邦党員のいらいらは募っていった。結果的に連邦党の強い地盤であるニューイングランドの幾つかの州で合衆国からの脱退を考え始めた。マサチューセッツ州、コネチカット州、ロードアイランド州、およびバーモント州やニューハンプシャー州の反対派の郡からの代議員26名が集まってハートフォード会議が秘密裏に開催された。まずマサチューセッツ州の代議員が1814年10月10日に呼びかけ、表面上は改憲を議論し、1815年1月5日まで続けられた。その最終報告書は公然と脱退を勧めてはいないものの、以前に民主共和党が支配する議会で通すことの適わなかった幾つかの憲法の改正を要求していた。これは脱退という脅しをかけることで、ニューイングランドのために有利な条件を取ろうという駆け引きだった。しかし、会議の委員達が交渉のためにワシントンD.C.を訪れた時、イギリスとの和平条約が成立したという報せに迎えられることになった。ガン条約は基本的に戦争前の状態に戻すことが盛り込まれていた。この事態は連邦党の潜在的な支持を無くし、言い訳無しに裏切りに近い提案をしようとしていたことになった。連邦党の委員達は直ぐにマサチューセッツ州に引き返したが、連邦党そのものが致命的な打撃を受けた。
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