公爵家としてのベンティンク家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 14:30 UTC 版)
「ポートランド伯爵」の記事における「公爵家としてのベンティンク家」の解説
初代公の孫である3代公ウィリアム(1738-1809)は首相を2度務めた政治家で、アメリカ独立戦争期及びナポレオン戦争期の英国を指導した。彼は1801年に勅許を得て、家名にキャヴェンディッシュ姓を加えてキャヴェンディッシュ=ベンティンク(Cavendish-Bentinck)を名乗った。 その息子の4代公ウィリアム(1768-1854)は王璽尚書も務めた政治家で、夫人ヘンリエッタの旧姓(スコット姓)を家名に加えることを認められている。彼ののちはその次男ウィリアム・ジョンが爵位を襲った。 しかし5代公ウィリアム・ジョン(1800-1879)は独身のまま死去したため、従弟にあたるウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクが公爵位を継承した。また5代公は古いイングランド貴族爵位であるオーグル男爵(英語版)の共同相続人であったため、その死に伴って継承権の持分は彼の姉妹に細分化された。 6代公ウィリアム(1857-1943)は枢密顧問官や主馬頭(英語版)を歴任したほか、1893年に母からボルゾーバー男爵を継承したため、男爵位はポートランド公爵の従属爵位となった。彼が1943年に没すると、爵位は息子のウィリアムが継承した 。 しかしながら7代公ウィリアム(1893-1977)には娘しかいなかったため、その死去に伴ってボルゾーバー男爵位は廃絶した一方、ポートランド公爵位は3代公の四男フレデリックの曾孫にあたるファーディナンドに継承された。 ただし、8代公ファーディナンド(1889-1980)にも子供がなかったため、爵位はわずか3年で実弟ヴィクターに相続されている。 9代公ヴィクター(1897-1990)は駐ポーランド大使(英語版)を務めた外交官であったが、彼の一人息子ウィリアム(1925-1966)は父の襲爵時には既に鬼籍に入っていたため、1990年にヴィクターが93歳で亡くなるとポートランド公爵位とティッチフィールド侯爵位は断絶した。 ポートランド公家からは多くの著名人物が輩出されている。インド総督を務めたウィリアム・ベンティンク卿、穀物法成立の際の政治家ジョージ・キャヴェンディッシュ=スコット=ベンティンク卿などが知られる。 ポートランド公爵家の本宅は、ノッティンガムシャーのウェルベック・アビーだった。ウェルベック・アビーとそれに付属する所領は、7代公の子孫を通じてキャヴェンディッシュ=ベンティンク家の所有となっている。広大な邸宅は近年、修繕がなされて私的な住居となっている。また、ノーサンバーランドに位置するペグズウッド村もベンティンク家の所有であった。さらに、オーストラリアの町ポートランド、ロンドンのポートランド・ハウスを保持していた。 イギリス軍の教育機関であるウェルベック・カレッジ(英語版)は、ポートランド公爵家に因んでいる。
※この「公爵家としてのベンティンク家」の解説は、「ポートランド伯爵」の解説の一部です。
「公爵家としてのベンティンク家」を含む「ポートランド伯爵」の記事については、「ポートランド伯爵」の概要を参照ください。
- 公爵家としてのベンティンク家のページへのリンク