公爵家および辺境伯家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/04 02:43 UTC 版)
「シュポンハイム家」の記事における「公爵家および辺境伯家」の解説
ケルンテン公ハインリヒ3世の死によりエッペンシュタイン家が断絶し、ハインリヒ3世の名付け子であったハインリヒ・フォン・シュポンハイムがケルンテン公領を得た。さらに、ハインリヒはヴェローナ辺境伯領の支配権も得、このためヴェローナ辺境伯領はケルンテン公領と同君連合となり、ケルンテン公はヴェローナ辺境伯も兼ねることとなった。 1123年、ハインリヒ4世は公位について1年後に死去し、弟であるイストリア辺境伯エンゲルベルト2世が公位を継承した。しかし、エンゲルベルトは息子ウルリヒ1世に公位を譲るため1135年に退位した。 しかし、1122年に断絶したエッペンシュタイン家の遺領および1142年にヴィクトリング修道院を創設したベルンハルトの弟エンゲルベルトの遺領が1147年にトラウンガウ家(de)に渡ったため、シュポンハイム家は強固な権力基盤を維持できなかった。シュポンハイム家はイストリアおよびトスカーナ辺境伯(1135年獲得)を失った。 1138年よりケルンテン公となったウルリヒ1世はホーエンシュタウフェン家を支持し、ケルンテン貴族やザルツブルク司教、バンベルク司教らと対立した。ウルリヒ1世の後はハインリヒ5世が公位を継承した。ハインリヒの時代の1151年に、それまでケルンテン公領と同君連合であったヴェローナ辺境伯領を失い、権力が弱まった。皇帝フリードリヒ1世に従軍していた1161年に、ハインリヒは溺死した。 弟のヘルマンが跡を継いだが、彼はホインブルク伯やケルンテンのオルテンブルク伯と対立した。1181年にヘルマンが死去した後は、ウルリヒ2世が公位を継承したが、ウルリヒは継承時幼く、1194年になってはじめて親政を行った。1198年、重病のため弟ベルンハルトが摂政となり、1202年にウルリヒが死去した後、ベルンハルトが公位を継承した。ベルンハルトはケルンテンの商業を発展させ、領土の拡大に努め、最終的にケルンテンにおけるシュポンハイム家の権力の強化に成功する。1234年、ベルンハルトはシトー会のラントシュトラース修道院(スロベニア語でコンスタニェヴィツァ修道院)を創建した。 1256年、長男のウルリヒ3世(1269年没)が公位を継承した。アグネス・フォン・アンデックス(1263年没)との結婚により、クラインおよびスロベニア辺境伯領の広大な領地を獲得し、自らクライン領主と名乗った。ウルリヒは従兄弟のボヘミア王オタカル2世に領地を遺贈し、弟でザルツブルク大司教、後にアクイレイア総大司教(en)となるフィリップは何も得られなかった。ウルリヒは嗣子なく1269年に死去したが、弟フィリップ(1279年没)は兄の遺領を巡ってボヘミア王と争ったが敗れた。これにより、シュポンハイム家出身のケルンテン公位の継承は終わりを告げた。同家が実際に公位を喪失したのは1269年であるが、フィリップが1275年より名目上のケルンテン公位を名乗った。フィリップは1279年死去し、ケルンテン系シュポンハイム家は断絶した。同家が世襲相続権を保持していたケルンテンおよびクラインは、帝国封地としてハプスブルク家の皇帝ルドルフ1世のものとなった。
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