公爵位継承まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 18:38 UTC 版)
「トマス・ハワード (第3代ノーフォーク公)」の記事における「公爵位継承まで」の解説
1473年に後に第2代ノーフォーク公爵となるトマス・ハワードとその妻エリザベス(旧姓ティルニー)(英語版)の息子として生まれる。 祖父ジョン・ハワードはイングランド王リチャード3世の即位に貢献し、1483年にノーフォーク公位を与えられたが、1485年8月にボズワースの戦いでリチャード3世と共に戦死した。父もリチャード3世に従って参戦し、捕虜になっていたため、議会は10月に父の私権剥奪を決議した。これにより父は1489年まで監禁生活を送った。 1489年に釈放された父は、12人の子女を使って婚姻関係でうまく勢力を伸ばしていった。その一環でトマスは1495年にヘンリー7世の義妹アン王女(英語版)(エドワード4世の娘でリチャード3世の姪、ヘンリー7世の王妃エリザベスの妹)と結婚することになった。しかし彼女との子供は夭折し、1511年にはアンに先立たれてしまった(後にバッキンガム公エドワード・スタフォードの娘エリザベスと再婚する)。 1513年にヘンリー8世のフランス遠征(カンブレー同盟戦争)の隙をついてスコットランド王ジェームズ4世が4万のスコットランド軍を率いてイングランド侵攻を開始したが、トマスは老齢の父とともに2万6000のイングランド軍を率いてスコットランド軍を撃破し、ジェームズ4世も敗死させた(フロドゥンの戦い(英語版))。この恩賞で翌1514年に父の第2代ノーフォーク公への復権が勅許された。トマスも同年に父の爵位サリー伯爵を継承することが認められ、アイルランド総督、海軍卿(英語版)や大蔵卿(英語版)等の官職を歴任してヘンリー8世の宮廷に仕えた。1523年に主君の命令でフランス東部ピカルディへ遠征したが、こちらは戦果無く撤兵した(第三次イタリア戦争)。 しかしこの頃、新しい政治勢力としてジェントリが台頭し始めていた。トマスはラテン語はおろか国語の読み書きも覚束ないとされる一方、そうした才能を持つジェントリ層から出たトマス・ウルジー、トマス・クロムウェル(後の初代エセックス伯)、エドワード・シーモア(後の初代サマセット公)らに権勢を脅かされるようになった。また、父がノーフォーク公に復権した同年にヘンリー8世はチャールズ・ブランドンをサフォーク公に叙爵、イースト・アングリアでノーフォーク公家が勢力拡大する事態を阻止すべく牽制としてブランドンを同地へ派遣、以後両家の間で度々衝突が発生した。 1524年に父が死去したことで第3代ノーフォーク公位を継承した。
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