公爵家としてのバーティー家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/08 08:36 UTC 版)
「リンジー伯爵 (イングランド貴族)」の記事における「公爵家としてのバーティー家」の解説
2代伯の孫にあたる4代伯ロバート(1660-1723)はランカスター公領相を務めたほか、アン女王崩御後にはジョージ1世がイギリスに到着するまで、摂政官(Lord Justice)の一員に任ぜられている。彼は1706年12月21日にリンジー侯爵(Marquess of Lindsey)に陛爵したのち、1715年7月26日にはアンカスター=ケスティーヴン公爵(Duke of Ancaster and Kesteven)に叙せられて、以降5代にわたって公爵家として存続することとなる。なお、両爵位はともにグレートブリテン貴族爵位であった。 しかし、彼のひ孫にあたる4代公ロバート(1756-1779)が嗣子なく夭折すると、ウィロビー・ド・アーズビー男爵位は妹プリシラ(1761-1828)とジョージアナ(英語版)(1761-1838)との間で優劣がつかず停止状態 (1780年解除され、現存)となったほか、式部卿職に関しては姉妹の子孫が英国君主の代替わりごとに交代して世襲する裁定が下っている。一方で、公爵位や侯爵位及び伯爵位は叔父のブラウンロー(1729-1809)に相続された。 その5代公ブラウンローもまた男子なく没すると、アンカスター=ケスティーヴン公爵及びリンジー侯爵は廃絶したものの、リンジー伯爵位のみは遠縁のアルベマール(英語版)(1744–1818)に継承された。
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