八幡社伝承とは? わかりやすく解説

八幡社伝承

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 00:07 UTC 版)

末の松山」の記事における「八幡社伝承」の解説

仙台藩提出させた『風土記御用書出八幡村』(安永3年(1774年))では、 八幡村名所として「末の松山」を挙げ末の松山には旧跡として伊達家御仮屋のうしろ古館内のところに八幡社之跡」があったとしている。 この八幡社勧請については、いくつかの伝承がある。宮城県神社庁編纂の『宮城県神社名鑑』(1976年)では、「元正天皇養老5年諸国国分寺建立せられし頃、別当寺般若寺と共に末松山に勧請したといわれる。又往古豊前国宇佐郡から奉還した奥羽古社で、延暦年中坂上田村麿東夷征伐時数多の軍兵率いてこの地に逗留し建立したともいい、又本社は元松島在り類聚国史載する所の宮城郡松島八幡是なり。田村将多賀城在るの日、之を末の松山移し建て、以て祭祀便すともいわれる。」を示している。ここに示され3つの伝承はすべて貞観津波以前勧請であること、後二者坂上田村麻呂宇佐あるいは松島から勧請したとしている。なお、坂上田村麻呂伊澤鎮守府八幡宮岩手県奥州市)も勧請したとされ、実際に源頼朝文治5年1189年9月21日にこの神社参詣している(『吾妻鏡』)。 八幡社別当末松般若寺『風土記御用書出』安永3年(1774年))には、天喜康平之頃(11世紀中ごろ)には「八幡太郎東夷之折當社江鞢(ゆがけ)被成置候以後八幡と奉称御神領数丁御寄附有之繁昌千軒餘之町場有之」の繁栄した時代があったとする伝承と、建保年中(1214-1219)に将軍実朝公の御時に、平右馬介末の松山居城拝領し八幡社末の松山から現在地宮内遷宮することになったとする伝承書き記している。また延宝年中亡失してしまった古鐘銘文(「奉謹鐘鋳 奥州末松山八宮 大檀那介平景綱 大工加当安吉 大工藤原弘光 永七年二月朔日」)が書出されており、永仁7年1299年)の史実として確実視されている。

※この「八幡社伝承」の解説は、「末の松山」の解説の一部です。
「八幡社伝承」を含む「末の松山」の記事については、「末の松山」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「八幡社伝承」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「八幡社伝承」の関連用語

八幡社伝承のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



八幡社伝承のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの末の松山 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS