八幡社伝承
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仙台藩が提出させた『風土記御用書出八幡村』(安永3年(1774年))では、 八幡村の名所として「末の松山」を挙げ、末の松山には旧跡として伊達家御仮屋のうしろ古館の内の古杉のところに「八幡社之跡」があったとしている。 この八幡社の勧請については、いくつかの伝承がある。宮城県神社庁編纂の『宮城県神社名鑑』(1976年)では、「元正天皇の養老5年諸国に国分寺を建立せられし頃、別当寺般若寺と共に末松山に勧請したといわれる。又往古豊前国宇佐郡から奉還した奥羽の古社で、延暦年中坂上田村麿東夷征伐の時数多の軍兵を率いてこの地に逗留し建立したともいい、又本社は元松島に在り、類聚国史載する所の宮城郡松島八幡是なり。田村将軍多賀城に在るの日、之を末の松山に移し建て、以て祭祀に便すともいわれる。」を示している。ここに示された3つの伝承はすべて貞観津波以前の勧請であること、後二者は坂上田村麻呂が宇佐あるいは松島から勧請したとしている。なお、坂上田村麻呂は伊澤郡鎮守府八幡宮(岩手県奥州市)も勧請したとされ、実際に源頼朝は文治5年(1189年)9月21日にこの神社を参詣している(『吾妻鏡』)。 八幡社別当の末松山般若寺の『風土記御用書出』(安永3年(1774年))には、天喜康平之頃(11世紀中ごろ)には「八幡太郎東夷之折當社江鞢(ゆがけ)被成置候以後鞢八幡と奉称御神領数丁御寄附有之繁昌千軒餘之町場有之」の繁栄した時代があったとする伝承と、建保年中(1214-1219)に将軍実朝公の御時に、平右馬介が末の松山に居城を拝領し、八幡社は末の松山から現在地の宮内に遷宮することになったとする伝承を書き記している。また延宝年中に亡失してしまった古鐘の銘文(「奉謹鐘鋳 奥州末松山八幡宮 大檀那介平景綱 大工加当安吉 大工藤原弘光 永仁七年二月朔日」)が書出されており、永仁7年(1299年)の史実として確実視されている。
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