八丈小島における研究と検診の継続とは? わかりやすく解説

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八丈小島における研究と検診の継続

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 10:37 UTC 版)

八丈小島のマレー糸状虫症」の記事における「八丈小島における研究と検診の継続」の解説

八丈小島では、1956年昭和31年)にヘリコプターなどを使って行われた大規模な駆除作業の後にも、伝研関係者による研究継続されていた。1961年昭和36年)に新人教員として小中学校赴任した児童文学作家漆原智良著書黒潮の瞳とともに』の中で、八丈小島赴任中の1962年昭和37年11月行われた集団採血検査様子語っている。この時の八丈小島採血検査行ったのは佐々門下生1人である神田中心とする伝研一行であり、小中学校検査場に夜8時過ぎから島民採血が行われ、漆原当時結婚したばかりの妻とともに検査受けた教員であった漆原会場となった学校発電機当番であったため、検査終了後その場残りギムザ染色などを行う伝研関係者検査見守っていると、神田から顕微鏡を覗くよう促され血液中に小さな何十匹ものたうち回っているのを見て仰天する検査採血される血液はわずか0.03cm3であるが、その中に170匹もバクミクロフィラリア)がいるという。人間血液を約5リットルとして、約17万倍掛けると2800匹ものバク体内にいる計算になる。 翌朝漆原神田から保名簿見せられ再び仰天する今回採血検査見つかった15名の保者の中に漆原の妻が含まれていたからである。漆原の妻は半年ほど前に八丈小島へ来たばかり、それなのにバク体内侵されていたのに対し、島で1年半以上暮らしている漆原本人陰性であった。保名簿の横には0.03 cm3採血中のバクの数が記されており、最低が2匹、最高が180匹、漆原の妻は7匹であったという。幸い1962年昭和37年)は厚生省によるフィラリア対策スタートした年で、スパトニンによる駆虫薬使った治療方法はほぼ確立されており、その日のうちに漆原のもとへ神田から直接スパトニンが届けられ服用方法説明受けて事なきを得たという。かつて不治の病であったフィラリア症も、自覚症状現れる前の段階感染有無分かり、スパトニンの服用によって完治する時代になっていたのである

※この「八丈小島における研究と検診の継続」の解説は、「八丈小島のマレー糸状虫症」の解説の一部です。
「八丈小島における研究と検診の継続」を含む「八丈小島のマレー糸状虫症」の記事については、「八丈小島のマレー糸状虫症」の概要を参照ください。

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