八丈小島における研究と検診の継続
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「八丈小島のマレー糸状虫症」の記事における「八丈小島における研究と検診の継続」の解説
八丈小島では、1956年(昭和31年)にヘリコプターなどを使って行われた大規模な駆除作業の後にも、伝研の関係者による研究は継続されていた。1961年(昭和36年)に新人教員として鳥打小中学校へ赴任した児童文学作家の漆原智良は著書『黒潮の瞳とともに』の中で、八丈小島赴任中の1962年(昭和37年)11月に行われた集団採血検査の様子を語っている。この時の八丈小島で採血検査を行ったのは佐々の門下生の1人である神田錬蔵を中心とする伝研の一行であり、鳥打小中学校を検査場に夜8時過ぎから島民の採血が行われ、漆原は当時結婚したばかりの妻とともに検査を受けた。 教員であった漆原は会場となった学校の発電機の当番であったため、検査終了後もその場に残り、ギムザ染色などを行う伝研関係者の検査を見守っていると、神田から顕微鏡を覗くよう促され、血液の中に小さな虫が何十匹ものたうち回っているのを見て仰天する。検査で採血される血液はわずか0.03cm3であるが、その中に170匹もバク虫(ミクロフィラリア)がいるという。人間の血液を約5リットルとして、約17万倍を掛けると2800万匹ものバク虫が体内にいる計算になる。 翌朝、漆原は神田から保虫者名簿を見せられ再び仰天する。今回の採血検査で見つかった15名の保虫者の中に漆原の妻が含まれていたからである。漆原の妻は半年ほど前に八丈小島へ来たばかり、それなのにバク虫に体内が侵されていたのに対し、島で1年半以上暮らしている漆原本人は陰性であった。保虫者名簿の横には0.03 cm3の採血中のバク虫の数が記されており、最低が2匹、最高が180匹、漆原の妻は7匹であったという。幸い1962年(昭和37年)は厚生省によるフィラリア対策がスタートした年で、スパトニンによる駆虫薬を使った治療方法はほぼ確立されており、その日のうちに漆原のもとへ神田から直接スパトニンが届けられ、服用方法の説明を受けて事なきを得たという。かつて不治の病であったフィラリア症も、自覚症状が現れる前の段階で感染の有無が分かり、スパトニンの服用によって完治する時代になっていたのである。
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