八丈小島忘れじ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 10:37 UTC 版)
「八丈小島のマレー糸状虫症」の記事における「八丈小島忘れじ」の解説
八丈小島が無人島になった後、日本の各地ではフィラリア症の防圧が進み、1976年(昭和51年)の愛媛県三崎町(現伊方町)での根絶宣言を皮切りに、鹿児島県、長崎県、熊本県と続き、1988年(昭和63年)11月25日に沖縄県宮古島平良市中央公民館で開催された「第20回沖縄県公衆衛生大会」において沖縄県内のフィラリアの根絶が宣言されたことにより、日本は世界で初めてリンパ系フィラリア症を根絶した国になった。 根絶宣言が行われた各地では、その業績が称えられ記念碑が建立されたが、そこでの治療法や媒介蚊駆除の道筋が確立されたのは、佐々学ら研究者の努力もさることながら、数年間にわたり、採血検査、スパトニン治験、媒介蚊特定のために、その身を挺して協力を惜しまなかった八丈小島の人々の存在がなくては成し得ないものであった。 無人島となった八丈小島は磯釣りやトレッキングなどに訪れる人が時折いるだけで、その後も無人島のままであるが、全員離島から45年後の2014年(平成26年)11月2日、『八丈小島忘れじの碑』が建立された。この記念碑は八丈小島旧島民や所縁のある有志によって、八丈小島を正面に見渡せる八丈島南岸の南原千畳敷の一角に設置された。碑文には離島の際、当時の鳥打村村長鈴木文吉が鳥打小中学校校舎の内壁にペンキで書き記した詩文が刻まれ、無人島となった故郷の島や島民を偲ぶ場所となった。 八丈小島でのフィラリア症根絶は、愛媛、鹿児島、沖縄各地のように根絶記念碑が建てられることはなく、根絶宣言が行われることもなかった。しかし八丈小島で培われたDEC(スパトニン)服用による駆虫と媒介蚊の駆除の併用によるフィラリア防圧モデルは、根絶した日本国内に留まらず世界各地のフィラリア流行地での防圧活動に活かされている。
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