作曲、マティルデ・ヴェーゼンドンクとの恋愛
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「トリスタンとイゾルデ (楽劇)」の記事における「作曲、マティルデ・ヴェーゼンドンクとの恋愛」の解説
また、このころからワーグナーとヴェーゼンドンクの妻マティルデ(1828年-1902年)との恋愛関係が始まり、『トリスタンとイゾルデ』は二人の関係を理想化する内容ともなっていった。同時期に書かれた『ヴェーゼンドンク歌曲集』はマティルデ・ヴェーゼンドンクの詩によるもので、5曲のうち「夢」と「温室にて」には「トリスタンへの習作」と副題が付けられ、それぞれ「愛の二重唱」(第2幕)、第3幕への前奏曲の旋律に転用された。 『ジークフリート』の中断以降、ワーグナーは1857年8月20日に『トリスタンとイゾルデ』の散文による筋書きに取りかかり、韻文による台本完成は1857年9月18日である。この台本はマティルデに捧げられた。作曲は10月1日から取りかかり、第1幕が1858年4月3日チューリヒで、第2幕が1859年3月18日ヴェネツィアで、第3幕が1859年8月6日にルツェルンでそれぞれ完成した。 1858年1月13日に第1幕のオーケストラ・スケッチを終えたワーグナーは、スケッチの末尾に「このような作曲は、いまだかつてなかった」と書いている。翌1859年、第2幕の完成後にはマティルデ・ヴェーゼンドンクに宛てた手紙で「私の芸術の最高峰」と述べ(#「移行の技法」を参照)、同年の全曲完成後には、「リヒャルト、お前は悪魔の申し子だ!」と叫んだという。後にこの作品を初演することになるハンス・フォン・ビューローは、「音楽新報」編集長のフランツ・ブレンデルに宛てた書簡(1859年)で次のように述べた。 「私はあなたに、このオペラがこれまでの音楽全般の頂点に位置しているということを断言いたします。」 なお、第2幕以降がチューリヒで作曲されなかったのは、第1幕完成直後にワーグナーとマティルデの関係が発覚したことによる。1858年4月7日、ワーグナーの妻ミンナは、ワーグナーがマティルデに宛てた秘密の手紙を手に入れた。オットー・ヴェーゼンドンクはこれを静観し、マティルデもまた自分の家庭を破壊することは望まなかったことから、ワーグナー夫妻がチューリヒを出ていくことになったのである。8月にワーグナーはヴェネツィアに移り、ミンナはひとりドレスデンに去った。ワーグナーのヴェネツィア滞在は1859年3月28日までであり、滞在費用はひきつづきオットー・ヴェーゼンドンクが負担していた。
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