体操選手として
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慶應義塾大学体育研究所に勤務しながら体操の技能を磨いた清子は1960年のローマオリンピック(24歳)、1964年の東京オリンピック(28歳)と夫婦そろって連続出場(夫の喬は1952年ヘルシンキオリンピック、1956年メルボルンオリンピックから4大会連続出場)した。特に東京大会では1男1女の2児の母として出場し、赤の長袖レオタードに白のエレガンスシューズ姿で演技をこなし、体操競技で団体銅メダルを得た。夫との間には息子2人、娘3人がいる。 体操選手を引退後は中央教育審議会委員など、各種審議会委員を務めてスポーツを通じた青少年教育に従事。
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体操選手として
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大学4年生の1968年メキシコシティーオリンピック男子体操チームのメンバーに選ばれ、アキレスけんを痛めながらもソ連のミハイル・ボローニン(英語版)との接戦のすえ個人総合で金メダルを獲得し、団体総合でも優勝を果たす。以来、3大会連続でオリンピックに出場。「6種目やってこその体操」を信条として猛練習を重ね、ソ連のニコライ・アンドリアノフらと激しい覇権争いを繰り広げた。 1960年ローマオリンピックから1976年モントリオールオリンピックまで続いた男子体操チームのオリンピック団体5連覇のうち、3大会でメンバーとして出場した。 自身がオリンピックで獲得した金メダルの数は8個に及び、これは日本選手としては最多の獲得数である。特に「個人総合」のオリンピック2連覇を達成した選手は、イタリアのアルベルト・ブラリア、ソビエト連邦のビクトル・チュカリン、日本の内村航平と加藤澤男の4人のみである。 後輩の塚原光男、笠松茂が難易度の高いオリジナル演技を自ら開発、演技するのに比べ、加藤の演技は美しさを追求するものである。モントリオール大会における平行棒の演技では、フィニッシュの2回宙返りの最中でも、足の爪先を伸ばしたままの姿勢を維持していた。これは「体操の教科書」となる演技と言われ、このような美しさを追求した演技が、後輩の選手達にも大きな影響を与えている。 1999年5月、国際スポーツ記者協会が選んだ「20世紀を代表する25選手」に日本人ではただ1人選出された。2000年シドニーオリンピック時には、選手村内の道路の1つが「サワオ・カトー・ストリート」と名付けられた。2001年に国際体操殿堂入り。2021年5月、国際天文学連合の小天体命名ワーキンググループ (WGSBN) によって、木星のトロヤ群に属する小惑星番号43212の小惑星が Katosawao と命名された。木星のトロヤ群の小惑星にはトロイ戦争に関わる人物の名前が付けられることとされていたが、新たにアスリートに由来する名前が付けられることとされ、加藤ら5名が最初に選ばれたものである。
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