住居、博物館、墓地など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 14:37 UTC 版)
「エドガー・アラン・ポー」の記事における「住居、博物館、墓地など」の解説
ポーの生家や幼少期の住居は、アラン家のモルダヴィアの地所にあったものを含め現存していない。アラン家の古い家屋としてリッチモンドのオールド・ストーン・ハウスがあり、現在ここはエドガー・アラン・ポー博物館として使用されているが、ポー自身がここで生活したことはない。この博物館ではポーがアラン家で生活していた当時の様々な品や、ポー作品の希少な初版を所蔵している。ポーが1826年に使用していたと考えられているヴァージニア大学の寄宿舎の部屋は「大鴉協会」と呼ばれる学生スタッフによって保存・運営されており見学も可能になっている。 現存するポーの住居の中で最も古いボルティモアの家は、現在「エドガー・アラン・ポーの家および博物館」として運営されている。ポーはここで23歳のときにマライア・クレムとヴァージニア(またおそらく他の家族)とともに住んでいたと考えられている。ここは一般見学も可能であると同時にエドガー・アラン・ポー協会の拠点にもなっている。フィラデルフィアにおいてポーがヴァージニア・クレムおよびマライア・クレムとともに移り住んだ様々な賃貸住宅は最後に借りたものだけが現存している。1843年から1844年まで住んだスプリング・ガーデンがそれで、ここは現在ナショナル・パーク・サーヴィスによって保存されエドガー・アラン・ポー自然史博物館として使用されている。ポーの最後の住居で「ポー・コテージ」と呼ばれる木造家屋はニューヨーク州ブロンクス区に現存する(「文筆生活」の節の画像参照)。 ポーに関係する住居としては、他にポーが最初にニューヨークに移ったとき一時的に借りていた建物がアッパー・ウェスト・サイドにあり、碑板にはポーはここで「大鴉」を執筆したと記されている。またポーが酒を飲んでいる姿が最後に目撃されたと言われている酒場がボルティモアのフェルズ・ポイントに現存しており、その地域には「エドガー」と呼ばれる幽霊がその酒場の各部屋に出現するという伝承がある。 ポーの墓はボルティモアのウェストミンスター・ホール墓地(英語版)にある。当初ポーは墓地の裏の隅の目立たない場所に祖父のデイヴィッド・ポーとともに葬られていたが、ここには墓石もなく、目印として「ナンバー80」と書かれた砂岩のブロックが置かれているだけの極めて粗末な墓であった。1873年になって、ポーの墓所を訪れた南部の詩人パウル・ハミルトン・ハイネがポーの墓の惨状を新聞記事で伝えたことをきっかけに、ポーのためにより立派な墓碑を建てようという呼びかけが行われた。1875年、ポーは教会の正面の場所に埋葬しなおされ、全米から集まった寄付をもとに1500ドルの費用をかけて墓碑が立てられた(「その死」の節の画像を参照)。もともとの埋葬場所にも新たに石碑が建てられたが、1949年から2009年までの60年間、毎年この石碑を訪れて薔薇の花とコニャックを捧げていたものがいた。この人物はポー・トースターと呼ばれていたが、現在は途絶えている。
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