会社での実用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 09:28 UTC 版)
呉羽紡績株式会社は1929年に大阪に設立され、富山県婦負郡西呉羽村(現在、富山市の一部)に一番目の工場を建てた紡績会社である。伊藤忠兵衛は呉羽紡績およびその母体である富山紡績(1934年に呉羽紡績に合併された)の経営者であったので、これらの会社でカタカナの左横書きを実用しはじめた。 当時、会社が工場労働者として雇いいれていたのは、尋常小学校の6年間をおえた少女たちであった。伊藤は、少女たちが工場の掲示をどれほど理解しているか試験し、ほとんどのものがまるで理解していないことをみいだした。そこで会社では、1934年に、「タンツバワ タンツボエ」、「タバコ ノムナ」、「オチワタ イトクズ ヒロッテ ハコエ」などのカタカナ左横書きの看板をつくり、工場に取りつけた。 また、伊藤は、1909年にイギリスに留学し、そこでタイプライターの能率のよさを知っていた。そこで会社では、1936年にカナタイプを使った事務をはじめた。最初は会計書類を書くのに使った。 ところが、第二次世界大戦がはげしくなると、タイプライターの輸入ができなくなった。また、呉羽紡績自体も、1944年に合併によって大建産業紡績部となった。このため、タイプライターの利用は中断した。 1950年に大建産業から呉羽紡績株式会社が独立したのち、ふたたびカナタイプの利用がおこなわれた。1953年には、会計に伝票をつかったワンライティングシステムを採用し、その伝票にはカナタイプで記録することにした。また、同じ年には、本社と支店や工場を結ぶカタカナのテレタイプを使いはじめた。やがて伝票だけでなく稟議書もカナタイプで書かれるようになり、社内報もカタカナ左横書きで組まれるようになった。カナモジカイから講師がまねかれ、わかち書きやカナタイプの講習会も開かれた。 なお、呉羽紡績は1966年に東洋紡績に合併された。株式会社クレハはかつて呉羽化学工業株式会社といい、呉羽紡績の子会社であった。 同じく伊藤忠兵衛が経営していた伊藤忠商事でも、1961年からカタカナとカナタイプを使いはじめた。
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