会社としての問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/28 10:16 UTC 版)
「CDC 8600」の記事における「会社としての問題」の解説
1971年、CDCはIBMとの進行中の訴訟のコストのため社内に「倹約令」が発せられていて、全ての部門は給料の10%カットを要求されていた。クレイは、8600の出荷を成し遂げるために倹約令を免除されることを願い出たがこの要求は断られ、問題を解決するためにクレイは自分の給料を最低賃金に減給した。 1972年、クレイの伝説的なモジュール設計の才能も 8600の場合には役に立たなかったことが明らかになってきた。信頼性は非常に乏しく、マシンを完全に動作させることは不可能であった。これは何も初めての経験ではなかった。6600プロジェクトでもクレイは設計を一からやり直しているし、7600では出荷後も安定して動作するまでにはしばらく時間がかかった。今回もクレイはこのままの設計では行き詰ると考え、CDCのCEOであるウィリアム・ノリスに一から設計をやり直すしか方法がないことを告げた。会社の財政は危険な状況にあったため、ノリスは危険を冒すことができないと判断した。ノリスはクレイに現在の設計を続行するしかないと言い渡したのである。 1972年に、クレイはそのような条件の下で作業することができないと決め、CDCを辞めてクレイ・リサーチを設立した。新たに設計を再開するにあたって、彼は当時のソフトウェアではマルチプロセッサを生かしきれないと判断して、マルチプロセッサ構想を捨てた。ILLIAC IVがほぼ同時期に稼動し始め、期待はずれの性能であることが分かったこともクレイの判断に影響していたかもしれない。 チームのメンバーは 8600がクレイなしでも完成させられることをノリスに納得させて、作業はチペワ研究所で続けられた。1974年になってもマシンはまだ正常動作しなかった。ジム・ソーントンの対抗プロジェクトである STAR の設計はこの時点で生産品質に達し、8600プロジェクトはそれをもってキャンセルされた。STAR が実際のアプリケーションでは性能が出ないことを証明し、1976年にCray-1が市場に投入されると、CDCはスーパコンピュータ市場で迅速に隅に追いやられた。1980年代に入って、ETA10による再挑戦をしたが、これも不発に終わったのである。
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