伊吹山東西側斜面の線路改良から戦前まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 03:11 UTC 版)
「新垂井線」の記事における「伊吹山東西側斜面の線路改良から戦前まで」の解説
大垣駅 - 関ケ原駅 - 長岡駅間は伊吹山東西側斜面にあたり、両者共25‰の急勾配が連続する区間であった。この区間においては、勾配を10‰程度に抑える勾配緩和対策が施工され、関ケ原駅 - 長岡駅間と大垣駅 - 関ケ原駅間に分けられて施工された。 関ケ原駅 - 長岡駅間は、伊吹山の西側斜面にあたり、25‰の急勾配が連続する区間であった。このため、勾配を10‰程度に抑える改良工事が計画され、1895年(明治28年)の第7回鉄道会議でこの区間の勾配改良についての説明では、深谷駅経由のルートを南側へ迂回させ、長岡から天ノ川流域を南進して天ノ川橋梁を架橋、柏原(かしわばら)駅を新設、さらに中山道を横断して滋賀県から岐阜県に入り、今須隧道と藤古川橋梁経由で10‰の勾配に改良するというもの。その後、1899年(明治32年)10月15日に関ケ原駅 - 長岡駅間が開業、同年12月28日に関ケ原駅 - 深谷駅 - 長浜駅間の貨物線および深谷駅 - 長岡駅間が廃止となる。なお、長岡駅は1914年(大正3年)12月1日に近江長岡駅と改称した。 東海道本線の難所越え区間で最後まで急勾配が残った大垣駅 - 関ケ原駅間は、伊吹山の東側斜面にあたり、垂井駅 - 関ケ原駅間は、ほぼ直線ながら20 - 25‰の急勾配が連続する区間で、下り列車が関ケ原駅へ向かう場合は、登り勾配となるため、本区間は明治時代より改良の調査をしていた。1940年(昭和15)年になると軍事輸送が増加、下り列車の補機連結のため、上り列車の補機の回送があるなどで、線路容量が極度に切迫、東海道本線中最大の隘路となった。そこで、下り線勾配緩和のため、勾配を10‰に抑えた単線の下り列車用別線を建設、1944年(昭和19年)10月11日に開業した。この線路は新垂井線とも呼ばれ、垂井駅の北方を大きく迂回するが、大垣駅 - 垂井駅間および大垣駅 - 新垂井駅間の駅間キロ程は、従来の垂井駅経由と同一にした。ただし、実際の駅間キロ程は新垂井駅経由の方が2.9km長い(詳細は後述。また、この区間の運賃計算の特例については後述を参照)。当初の計画では在来線は複線のままで残し、新線は下り長距離列車のみを通過させ、その他の列車は従来の下り線を通す予定であった。しかし、戦争による軌条の供給状況が切迫しているため、計画変更を余儀なくされ、この迂回線開業と同時に、下り本線は廃止され2線運転となり、さらに、線路も撤去されてしまった。このため、垂井町の人々は、下り列車は新垂井駅、上り列車は垂井駅を利用しなければならず、しかも両駅間は3.0km近く離れている。そこで、両駅を連絡するバスも運行されたが、不便この上なかった。
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