代表的な会所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/07 13:59 UTC 版)
代表的な会所建築として、将軍家の御所にあった会所をとりあげる。また、これら以外の有名なものとして、満済の時代の醍醐寺法身院と金剛輪院、大乗院門跡の成就院、伏見宮貞成親王の邸宅、時代下って細川高国の邸宅にあったものがあげられる。 義満の北山殿の会所三代将軍足利義満の北山殿北御所(今の鹿苑寺)には会所がひとつあり、これが独立会所のはじまり、将軍邸の会所のはじまりであると考えられている。天鏡閣とよばれた二階建ての建物であった。建物自体は、北山殿が西園寺家のものだった時からあった。会所の隣には泉殿と有名な三階建ての舎利殿(金閣)があって、舎利殿は二階部分は会所建築であるともいわれている。舎利殿と天鏡閣は、二階を廊下で結ばれていた。 義持の三条坊門殿の会所四代将軍足利義持の三条坊門殿には、義持の御所となる前からあった東御会所(端御会所)と、永享元年(1429年)にできた奥御会所のふたつの会所があった。貞成親王の『看聞日記』(永享三年二月七日、1431年)には、「凡会所奥端両会所以下荘厳置物宝物等、目を驚かす。山水の殊勝言語の覃ぶ所に非ず。極楽世界の荘厳もかくの如きか」と、その飾りつけとともに褒めちぎっている。奥御会所には、十二間の主室があった。この三条坊門殿には、後代の義量や義教も住んだ。 義教の室町殿の会所六代将軍足利義教がきづいた室町殿には、会所が三つもあった。御所内では次々に会所が建てられた。 南向会所 - 一番目、永享4年(1432年)にできた会所。名の通り、南に正面を向く。その南側に主室の九間があった。三つの会所の中で最も重んじられてつかわれた。観音殿とは、渡廊下で繋がっていた。 会所泉殿 - 二番目、永享5年(1433年)にできた会所で、北向会所ともいって、北に正面を向けていた。南向会所とは、池を挟んで向い合っていたとみられる。会所の典型には方丈の影響が見えたが、会所泉殿は、方丈よりは、名の通り泉殿から強い影響をうけた建物であった。下の復元平面図を他と比べれば、その会所としての異質さがわかるだろう。また、泉殿を兼ねていた建物であるともいう。 新造会所 - 三番目、永享6年(1434年)または永享7年(1435年)にできた会所。新会所ともいう。正面を南とするのが定説だが、東向きの会所だったという異説もある。三つの中では、最大のものである。 南向会所復元平面図 泉殿会所復元平面図 新造会所復元平面図 義政の東山殿の会所八代将軍足利義政がきづいた東山殿には、会所がひとつあった。南に正面を向く。主室の九間に押板があったといい、これは今までの会所の主室の傾向とは異なったものをみせている。が、それでも押板があった程度だ、ともいえ、大きな問題ではないという考え方もありえる。また、復元図のもとになった史料、『室町殿行幸御餝記』、『小河御所并東山殿御餝図』の解釈のちがいにより、主室にあったのはつくりつけの押板ではなく置押板である、という説もある。 この会所の位置については、堀口捨己によって、常御所より表向き、観音殿と東求堂の間に位置するだろう、と推測されたが、この説を川上貢が否定している。会所の、その副次的な性格から、常御所の前面に配置されるわけがなく、やはり、奥向きにあったのだろう、と川上は推測し、整合性があうように東山殿の復元配置を試みている。
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