代表的な仇討事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 08:00 UTC 版)
正月の初夢に見ると縁起が良い夢をあげて「一富士、二鷹、三なすび」(いちふじ、にたか、さんなすび)という伝統的な表現がある。これは一説には江戸時代の中頃から「三大仇討ち」として喧伝されてきた「曾我兄弟の仇討ち」(曾我兄弟は富士の裾野で巻狩りが行なわれた際にこれに乗じて仇討ちを行なった)、「赤穂浪士の討ち入り」(播州赤穂藩浅野家の家紋が「丸に違い鷹の羽」だったことから)、「伊賀越えの仇討ち」(伊賀国はなすびの産地として知られていたことから)のことを言ったものである。[要出典] 以下は代表的な仇討ち事件: 曾我兄弟の仇討ち 大河兼任の乱 源実朝の暗殺 山崎の戦い 天下茶屋の仇討 伊賀越えの仇討ち 浄瑠璃坂の仇討 亀山の仇討ち 高田馬場の仇討ち 赤穂浪士の討ち入り 臼井六郎仇討事件 仇を討つ討手は、武士はいうまでもないが、町人、農民もおり、幕末に向かって農民が増えた。またその大部分は子、弟妹、妻、臣、弟子、友人などであり、性別ではその大部分は男性であるが、享保8年、奥州白鳥明神前の敵討は姉妹であった。[要出典] 討手の年齢は、若いものでは白鳥明神前の敵討の妹は13歳、西岸寺河原仇討の岩井善次郎は13歳、摂津芥川敵討の松下助三郎は14歳、赤穂浪士の大石主税は15歳であった。[要出典] また敵討に要する時間は享保7年、相模国鎌倉山田原での敵討(伊東はる)は28年間であった。最長は嘉永6年に母の仇を討った「とませ」の53年である。2番目は久米幸太郎による仇討の41年である。 成功率は数パーセントであったといわれる。 なかには返り討ちにあった崇禅寺馬場の仇討のようなものもあり、また芥川の敵討のように、 A が B を殺害すると、 A の父が処刑され、したがって A が B の近親を討ち、 B の近親の子が A を討つというような複雑なものもあった。[要検証 – ノート] 討手の人数は、1人または2人が多く、これに助太刀が加わることもあり、赤穂浪士の47人というのは異例に属する。[要出典]
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