人物・治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 14:35 UTC 版)
苻生は先帝の服喪の期間であっても、遊び呆けて酒を飲み、少しも悪びれる様子が無かった。酒や遊びに夢中になると淫虐となり、非道にも殺戮を行った。また、いつも弓を構えたり剣を抜いて朝臣に見せたりしており、処刑に使う器具を左右に置いていた。 苻生は幼い頃より凶暴であったが、即位して以降その残虐性はますます酷くなった。また酒にも溺れ、昼夜関係無く飲み続けた。群臣は朔望(旧暦1日と15日)には朝廷に謁していたが、接見出来るのは稀であり、会えたとしても日が暮れてからであった。朝政に臨んでもいつも何かにつけて激怒し、殺戮を行った。場合によっては何ヶ月にも渡って酒に酔っぱらって朝廷に赴かず、奏上文を寝たまま決裁することもあった。その一方で、姦佞なる者の進言は聞き入れ、賞罰には基準などなかった。 寵愛する妻妾でも少しの過失で殺害され、屍は渭水へ投棄された。女官には男子と宮殿の前で裸交を命じる事もあった。死刑囚の顔の皮を剥いで歌舞をさせると、群臣を招いてその様子を見せ、これをもって喜び楽しむ事もあった。また、生きたまま牛・羊・驢馬の皮を剥ぎ、生きたまま鶏・豚・鵝を熱湯に投げ入れると、30から50を1纏めにして殿中に放つなどの奇行も行った。 宗室・旧臣・親戚・忠良の士は大半が殺害され、群臣は1日を過ごすことが、10年にも感じられた。王公で位にある者はみな病を理由に官職を辞し、帰郷を願い出た。人々は恐れ慄いたが、公然と非難出来なかったので、道路で出会えば互いに目でその不満を共有していた。 また、苻生は隻眼であったので『不足、不具、少、無、缺、傷、残、毀、偏、隻』と言う文字の使用を禁じ、これを犯した者は左右の側近でも処刑され、その数は記録出来ないほどであった。苻生が即位して幾ばくもしない内に、殺された人間は后妃・公卿以下僕隷に至るまでゆうに500人を越え、截脛(膝から下を斬り落とす)・拉脅(わき腹を圧し潰す)・鋸頸(頸を鋸で斬り落とす)・刳胎(胎児を抉り取る)の刑に処される者が相次いだ。治世の末年には、その数は千をはるかに越えたという。
※この「人物・治世」の解説は、「苻生」の解説の一部です。
「人物・治世」を含む「苻生」の記事については、「苻生」の概要を参照ください。
- 人物・治世のページへのリンク