交通と通信の発達
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 03:20 UTC 版)
ナポレオン戦争後のウィーン体制に入ると、産業革命がイギリス以外の各地でも進行する。鉄道建設はイギリスにおいて発達し、各地へ広まった。鉄道には大規模で長期的な投資が必要となり、紡績工場や炭鉱などの事業で資金を手にしていた投資家によって解決された。鉄道や運河など交通機関の整備にともない、ヨーロッパ域内の物流が活発となった。 1844年にアメリカのサミュエル・モールスが実用化した電信はイギリスで急速に広まり、1851年にはドーバー海峡の海底ケーブルをきっかけに世界各地で敷設が進められ、1866年には大西洋、1902年には太平洋も横断した。電信によって取引にかかる時間が短縮され、商慣行の統一が進み、物流が改善されていった。イギリスの電信会社は1870年から国有化され、植民地の統治にも効率化をもたらした。交通機関は1850年代から帆船にかわって蒸気船の利用が増加し、通信技術とともに貿易の速度を高めた。船舶と鉄道は1870年から1910年にかけて急増して、世界の商船は1600万トンから3200万トンになり、鉄道は20万キロメートルから100万キロメートルとなった。1869年のスエズ運河で地中海と紅海がつながり、1914年にはパナマ運河が開通して太平洋とカリブ海がつながる。交通と通信の発達によって、移民も増加した。資源貿易も大きな変化をとげる。電信や電機工業では銅が必須であり、ペルー、チリ、ザイール、ザンビアといった銅産出国の輸出が増加した。蒸気機関の次に内燃機関が実用化されると、石油とゴムの消費が増えた。
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