事典編纂の構想
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「イスラーム百科事典」の記事における「事典編纂の構想」の解説
『イスラーム百科事典』編纂の話が持ち上がったのは第9回国際東洋学者会議(1892年、ロンドン大会)(英語版)の席上である:5-6。イギリスの東洋学者ウィリアム・ロバートソン・スミス(英語版)が「ムスリム諸国の歴史、地理、宗教、科学、芸術を執筆対象とするイスラームの百科事典」の編纂を提案したところ、参加者の賛同を得、12人の委員からなる準備委員会が成立した:5-6。事典編纂という点ではスミスのアイデアは完全に独創的な試みというわけではなく、デルブロ(英語版)の Bibliothèque Orientale(『東洋叢書』、1697年)をはじめ、当時のヨーロッパには、すでに、オリエントの人物や事物を網羅的に記述した事典の先行例が存在した。しかしながら、19世紀末ごろのヨーロッパにおけるイスラームに関連する人物や事物への興味・関心の高まりに応えられるものではなくなっていた。 ところが、スミスは1894年に病没してしまった。第10回東洋学者会議(1894年、ジュネーヴ大会)では、編纂計画にまったく進展がないことが明らかになり、ハンガリーの東洋学者イグナーツ・ゴルトツィーエルがやむなく委員長を引き継ぐことになった。スミスは編纂した事典をケンブリッジで印刷・製本する構想を抱いていたかもしれないのであるが、亡くなった後になっては不明である:4-5。ゴルトツィーエルはプロジェクトを率いていくことが難しいと考え、オランダの東洋学者、ライデン大学のミハエル・ヤン・デフーイェ(英語版)を頼った:4-5。 第11回東洋学者会議(1897年、パリ大会)では、事典をライデンで印刷することが決まり、これを受けてゴルトツィーエルは委員長を自ら辞任して、以前から彼が委員長に推挙していたデフーイェに引き継がせた。編集者は印刷が実行される国(オランダ)の居住者であるほうが好ましいというのが辞任の理由のひとつである。ゴルトツィーエルは、出版社ブリルと出版人ヘルツゾーンの技術的な協力のもとで、この時点でライデンに集まっていた原稿に基づいて小冊子(ドイツ語)を作成し、第11回東洋学者会議で新しくメンバーが準備委員会の委員に配り、好評を得た。 新しい準備委員会の委員長デフーイェは、編集の実務にあたる編集長に、マルティン・テオドール・ハウツマを指名する。ハウツマはこの事典編纂プロジェクトがうまくいくはずがないと思っていた。デフーイェは、ハウツマが、このプロジェクトを実現困難にしているものが何かをよく理解してるからこそ、指名した。
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