久場崎キャンプ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 06:37 UTC 版)
久場の一帯は中城村の優良農地が広がっていた平野だったが、1945年の沖縄戦で米軍の捕虜となった村民は県内各地の収容所に送られ、米軍は久場に物資を揚陸する浮桟橋と兵舎を建設した。1945年の米軍地図によると、北谷から中城までびっしりと米軍の施設がならび、久場崎には第81海軍建設大隊(シービー)や赤十字、第51憲兵大隊などが駐屯した。シービーはここに物資供給のための桟橋を建設し、建設資材やその他の補給物資の配送や保管を担うと同時に、次々と基地の建設をおこなった。 1945年5月8日、第21海軍建設大隊は早くも軍道13号線の建設をはじめ、また最初の182メートルの久場崎桟橋を建設した。第21海軍建設大隊は、このように記している。 私たちが着陸した5日後、私たちは重要なウォーターフロントの最初の仕事に取り組んでいた。これは、サンゴ礁が岸辺を覆っている久場崎にLSTの埠頭を作るというものだった。600フィート (約180m) のポンツーン桟橋は、わずか数マイル南の戦闘の前線に補給物資を荷下ろしするため、二つの接岸をもつU字桟橋が緊急に必要だったのだ。調査が行われ、近隣の水田をドレーンし、破壊された久場の村とトマイ (中城村泊)の村から埋め立て土砂をもってきた。こうして海岸は水平に埋めたてられた。その一帯は浚渫され、サンゴの頭を爆破した。イルカは追いたて結界をした。ポンツーンを組み立て、所定の位置に置いた。建設開始から2週間後、最初のLSMが桟橋を使用し始めたが、すべての作業は6月15日になってやっと完了した。仕事は常に急がされた。日本軍は、その様子を見ていたに違いない。というのもある時爆弾が非常に近くに落とされたからだ。沖縄戦の最後の数週間で、桟橋は前線に物資を送り続けた。 — 第21海軍建設大隊の記録 p. 79.
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