久場崎桟橋と久場崎収容所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 06:37 UTC 版)
「久場崎学校地区」の記事における「久場崎桟橋と久場崎収容所」の解説
米軍は、終戦後も国外や本土から占領地沖縄への帰還を禁じていたが、1946年8月から引き揚げが許可されるようになる。米軍は久場崎桟橋で引き揚げ者を収容し、兵舎をたてて検疫などを行った。収容者は久場崎収容所かインヌミ収容所に収容され、一時的な収容で帰還できるものもいれば、軍に土地が接収され、あるいは身内が見つからず長期にわたって収容されるものもいた。村の記録では、沖縄の人口の5人に1人にあたるおよそ10万人が、この桟橋を経て帰郷したとされている。 サイパンから引揚げる時期が近くなった頃、女性と子どもたちだけ、ススペ湖で水浴びをさせてくれた。また、収容所内で運動会が二回ぐらいあった。昭和22年 (1947)2月28日、アメリカの船に乗せられサイパンを出発し、昭和22年3月5日、沖縄の久場崎に着いた。久場崎で一週間ほど過ごし、戸籍を調べられたりした。その後、インヌミヤードゥイに移り、さらに照屋のテント小屋で二年間過ごし、そして波平に移った。戦後落ち着いてからはほぼ毎年、慰霊祭にサイパンを訪れている。 — 読谷村史 第五巻資料編4 『戦時記録』 上 1946年12月末には久場崎収容所は閉鎖され、インヌミ収容所のみとなった。 沖縄の収容所 - 引揚者収容所久場崎収容所(久場崎学校地区) 中城村久場崎海岸 インヌミ収容所(キャステロ海外引揚民収容所) 沖縄市高原
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