中心としてのイエス・キリスト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/16 14:18 UTC 版)
「ディートリヒ・ボンヘッファー」の記事における「中心としてのイエス・キリスト」の解説
ボンヘッファー神学の展開に関して、中心点はイエス・キリストにある。この中心的観点から、神学的な深い考察、霊的深さ、倫理的責任感が組み合わされている。知覚し得る霊的な事項はキリスト教的存在論における根本事項である。イエス・キリストを中心とすることで、ボンヘッファーの神学的思惟における全要素が統一性を得ることになり、大学で講じられる福音主義神学に組み込まれた。ボンヘッファーのキリストに関する深い考察に際して、19世紀における宗教批判は現在においても意味を持っている。ルートヴィヒ・フォイエルバッハとアドルフ・フォン・ハルナックに関する暗示をおこないながら、彼は1928年の論文に『イエス・キリストとキリスト論の本質』という表題をつけていた。そこにおいて、彼はカール・バルトの弁証法神学の方法を用いて、知識、モラル、教会と宗教を神への無意味な道と見なした。「人間において神へ向かう道は一つであって、そこで人間と神は出会う必要がある。」イエスにおいて、神が無条件の愛を示して人間に接近して来ているのは明白であって、神の無条件の愛は死よりも強いのである 。キリストはそれ自体として存在し得るのではなく、人間である私に向けて存在するのであり、共同体においてのみ考えられ得る存在なのである 。 ボンヘッファーは新約聖書を引用して、キリスト論においてパウロとルターを重要な問題と見なしている。「お前は誰なのか、神自身なのか?」という問いに、初代教会はその問いに方法論という見地で答えたが、現代神学は本質論で答えようとして混乱している。イエス・キリストは今現在、単なる人間として存在し得るのであり、しかし、神としても永遠に存在し得るのであり、同時代人として存在し得るのであり、生きてもいる。 キリストは人間の中の義人による祈りと行為において存在し得るのであり、受肉と十字架がこの世に向けた全面的な愛を根拠づけるからである。1939年のテオドール・リットへのボンヘッファー書簡には以下の様に書かれている。 „なぜなら、神は貧しく、惨めで、無名で、敗北した人間になったのであり、神自身は貧困と十字架においてのみ見出し得るので、それゆえ、我々は人間とこの世から逃れることは出来ず、兄弟たちを愛し続けるのである“
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