中央製紙の設立とは? わかりやすく解説

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中央製紙の設立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 17:19 UTC 版)

中央製紙」の記事における「中央製紙の設立」の解説

中央製紙設立される契機となったのは地元有志誘致活動である。大手製紙会社王子製紙(初代)木材パルプ実用化触発されて、恵那郡中津町(現・中津川市)の有志の間で、町内針葉樹資源水質良い中津川活用して製紙工場起こす計画浮上した地元有志当時王子製紙の代表であった渋沢栄一援助求め1895年王子在籍していた大川平三郎らが実地調査のため中津町訪れた大川個人名義山林水利権工場用地取得し地元有志工場建設必要な権利取得し準備進めた工場建設障害であった交通の便悪さ1902年中央本線中津川駅延伸解消されたことから事業化目処がつき、渋沢栄一後援の下、当時王子製紙出て九州製紙経営していた大川平三郎によって新会社設立運びとなった新会社は「中央製紙株式会社」と命名され1906年10月5日創立総会開いた取締役会長渋沢篤二栄一長男)、専務取締役大川就任し渋沢栄一相談役就任した工場用地大川名義購入済みであった土地のうち、中津川沿いの尾選ばれた。中津川駅とは4kmほどの距離があったが、1907年9月に駅から工場までの貨物運搬軽便軌道竣工した。翌1908年5月工場竣工し営業運転開始した工場には抄紙機2台が設置されロール紙模造紙)や新聞紙生産した当初砕木パルプ (GP) のみ自製し、不足分GP亜硫酸木材パルプ (SP) 全量購入して賄っていたが、1909年2月SP自製開始した1910年4月には3台目抄紙機増設した。一連の工場拡大伴って原木不足したことから、1912年7月以降ほぼすべての原木供給元地元から樺太切り替えている。 洋紙生産高1910年が886ポンド(約4000トン)、1918年が1517ポンド(約6900トン)である。また、1912年9月時点筆頭株主大川平三郎で、その出資比率は11.1%であった

※この「中央製紙の設立」の解説は、「中央製紙」の解説の一部です。
「中央製紙の設立」を含む「中央製紙」の記事については、「中央製紙」の概要を参照ください。

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