中央製紙の設立
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中央製紙が設立される契機となったのは地元有志の誘致活動である。大手製紙会社王子製紙(初代)の木材パルプ実用化に触発されて、恵那郡中津町(現・中津川市)の有志の間で、町内の針葉樹資源と水質の良い中津川を活用して製紙工場を起こす計画が浮上した。地元有志は当時王子製紙の代表であった渋沢栄一に援助を求め、1895年、王子に在籍していた大川平三郎らが実地調査のため中津町を訪れた。大川は個人名義で山林や水利権、工場用地を取得し、地元有志も工場建設に必要な権利の取得し準備を進めた。 工場建設の障害であった交通の便の悪さが1902年の中央本線中津川駅延伸で解消されたことから事業化の目処がつき、渋沢栄一の後援の下、当時王子製紙を出て九州製紙を経営していた大川平三郎によって新会社設立の運びとなった。新会社は「中央製紙株式会社」と命名され、1906年10月5日、創立総会を開いた。取締役会長に渋沢篤二(栄一の長男)、専務取締役に大川が就任し、渋沢栄一は相談役に就任した。 工場用地は大川名義で購入済みであった土地のうち、中津川沿いの尾鳩が選ばれた。中津川駅とは4kmほどの距離があったが、1907年9月に駅から工場までの貨物運搬用軽便軌道が竣工した。翌1908年5月に工場は竣工し、営業運転を開始した。工場には抄紙機2台が設置され、ロール紙(模造紙)や新聞紙を生産した。 当初は砕木パルプ (GP) のみ自製し、不足分のGPと亜硫酸木材パルプ (SP) 全量を購入して賄っていたが、1909年2月にSPの自製を開始した。1910年4月には3台目の抄紙機を増設した。一連の工場拡大に伴って原木が不足したことから、1912年7月以降ほぼすべての原木の供給元を地元から樺太に切り替えている。 洋紙生産高は1910年が886万ポンド(約4000トン)、1918年が1517万ポンド(約6900トン)である。また、1912年9月時点で筆頭株主は大川平三郎で、その出資比率は11.1%であった。
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