中国の6年ぶりの参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/26 14:35 UTC 版)
「第31回世界卓球選手権」の記事における「中国の6年ぶりの参加」の解説
1971年、毛沢東が参加を承認したことから、1961年から1965年まで3大会連続で団体優勝し、1965年の第28回世界卓球選手権では個人団体7種目中、5種目で優勝した後、文化大革命以来2大会連続で不参加だった中国の卓球チームが6年ぶりに世界の舞台に立った。これは当時の日本卓球協会会長、アジア卓球連盟会長、愛知工業大学学長だった後藤鉀二が地元名古屋での大会を世界一のものとするべく西園寺公一日本中国文化交流協会常務理事らと協議し、二つの中国の問題解決に必要な処置(台湾をアジア卓球連盟から除名)を取ることを決断、1971年1月下旬から2月にかけて、後藤と森武日本卓球協会理事、村岡久平日中文化交流協会事務局長が、直接中国に渡り周恩来と交渉を行なった結果であった。こうした動きに対して親台湾派の代議士・石井光次郎が会長を務める日本体育協会や文部省からのクレーム、右翼からの脅迫などの反応が見られた。訪中した後藤は、アジア卓球連盟から台湾を排除するか、後藤がアジア卓球連盟会長を辞任すること、日本社会党が1958年に示した「日中の政治三原則」(中国を敵視する政策をとらない、二つの中国をつくる陰謀に加わらない、中日両国の国交正常化を妨害しない)という草案を提示、中国側の草案には台湾は中国の一つの省に過ぎないことや、蔣介石の名前が入っていたことから交渉は難航、最終的に周恩来の指示により、中国側が折れて2月1日に中国が参加する「会談紀要(覚書)」の調印がなされた。後藤は2月7日にシンガポールで行なわれたアジア卓球連盟総会でを「中国加入・台湾排除」(台湾は、14年前にランガ・ラマヌジャン会長時代に加盟した)を提案したが韓国、マレーシアなどの反対にあい、会長を辞任した。
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