中国に行くまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 23:06 UTC 版)
「オットー・ブラウン (共産主義者)」の記事における「中国に行くまで」の解説
オットー・ブラウンは1900年、ドイツバイエルン州のイスマニング(英語版)で生まれ、6歳から13歳まで孤児院で育った。そこで成績優秀だったため、師範学校に入学を許される。1917年、第一次世界大戦で勤労動員され、そこで会った仲間からの紹介でドイツ共産党の前身スパルタクス団に加入する。翌1918年にはイタリア戦線に兵役で参加するが、戦闘には参加していない。師範学校に復員し、1919年に教員免許を得るも、思想的に問題があるとして教師にはなれず、社会主義者による反乱バイエルン・レーテ共和国に参加する。しかし反乱自体が失敗に終わり、ブラウンは逃亡する。その後たびたび逮捕されるも小物としてすぐに釈放されている。1924年にオルガ・ベナリオ(英語版)と結婚。1926年に妻と相次いで逮捕される。妻はすぐに釈放されるがブラウンの拘束は続き、1928年4月に仲間が裁判所に銃で押し入って奪還した。妻と共にしばらくベルリンに隠れ、その後ソ連のモスクワに渡ってソビエト軍事大学(英語版)に入学する。在学中の1931年にオルガと離婚する。オルガの人生はこの後も波乱万丈であり、後に映画化されている。 1932年、伍長として実戦経験を積んだ後、王明からの依頼で上海に派遣されることになった中国共産党の軍事顧問となる:17-31。ソ連を代表する立場ではなく、顧問団の一人にすぎなかったという話もある:45。
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