両国の参戦とは? わかりやすく解説

両国の参戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/15 10:27 UTC 版)

スウェーデン・ブランデンブルク戦争」の記事における「両国の参戦」の解説

スウェーデンのブランデンブルク侵攻 (1674年-1675年)」および「ポメラニア戦役 (1675年-1676年)」も参照 1675年スウェーデン政府フランスからの要請応える形で参戦する。しかしブランデンブルク選帝侯はすでに軍備増強しつつあり、スウェーデン領ポンメルンへの領土的野心募らせていた。このこともあって、ブランデンブルク選帝侯オランダ同盟締結するブランデンブルク選帝侯は、スウェーデン軍ドイツ上陸帝国違反として糾弾し、平和を乱す侵略者として喧伝した。しかし当初神聖ローマ皇帝レオポルト1世ブランデンブルク選帝侯行動軽んじて喧伝作戦妨害したこのような状況一変させたのが、デンマークによる宣戦布告スコーネ戦争)と、6月のスウェーデン・ブランデンブルク選帝侯間のフェールベリンの戦いであったスウェーデン同盟条約のっとりスウェーデン領ポンメルンからブランデンブルク侵入しブランデンブルク軍と交戦したが、緒戦敗北喫した戦闘の規模自体それ程でもなかったが、この戦闘は、ブランデンブルク選帝侯によってプロパガンダに使用された)。この戦闘での勝利以降ブランデンブルク選帝侯戦争において優位に立つこととなり、神聖ローマ帝国内のブランデンブルク選帝侯地位高めさせ、帝国防衛戦争の牽引としてのブランデンブルク選帝侯立場強固なものとするのである一方大陸でもオランダ軍スウェーデン軍交戦開始された。しかし戦闘メインあくまでもスウェーデンブランデンブルク選帝侯であった大規模な戦闘もなく、オランダスウェーデンバルト海における貿易保証したストックホルム協定)。ただしオランダ海軍は、スコーネ戦争においてデンマーク海軍共闘関係にあったため、スウェーデン海軍海戦ではことごとく敗戦喫した大陸側においてもデンマーク軍は、ブランデンブルク軍と共闘していた)。このこともあって、スウェーデン軍は、ポンメルンへの援軍送り込むことは不可能となり、スウェーデン軍大陸側から駆逐されてしまうこととなった大陸に目を戻すと、フェールベリンの戦い以後ブランデンブルク選帝侯によってポンメルンの要塞次々陥落し、ポンメルンは事実上ブランデンブルク占有された。スウェーデンの軍事大国としての地位失墜したのである。さらにスコーネ戦争との二正面作戦スウェーデン弱体化招き、しかもブランデンブルク選帝侯海軍強化にも成功しバルト海南岸にその勢力拡大したのである。もはやスウェーデン敗北は明らかであった

※この「両国の参戦」の解説は、「スウェーデン・ブランデンブルク戦争」の解説の一部です。
「両国の参戦」を含む「スウェーデン・ブランデンブルク戦争」の記事については、「スウェーデン・ブランデンブルク戦争」の概要を参照ください。

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