世界タッグ王座のチャンピオンベルト返還訴訟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/14 08:13 UTC 版)
「石澤常光」の記事における「世界タッグ王座のチャンピオンベルト返還訴訟」の解説
2005年8月2日、全日本プロレスが同団体の所有する世界タッグ王座のベルトの返還に応じないとして、前月に解雇したカシンに対し、ベルトの返還を求める民事訴訟を東京地裁に起こした。 タッグパートナーの永田は王座剥奪時に全日本側の要請に応じてベルトを返還しているため、提訴の対象となっていない。剥奪後、全日本は王座決定戦を行い、太陽ケア、ジャマール組を正式な王者として認め、永田が返還した2本のベルトのみで王座戦を行っていた。 カシンは「王者になればベルトはもらえると思っていた。すべてはベルトを欲しがった永田君が原因。私は踏み台男の踏み台にされました」などといつものカシン節で応酬した。 さらに、同じTJ内に一緒にベルトを獲った永田がいるにもかかわらず、「王座は永田から中西に譲渡された」と一方的に宣言し、中西をパートナーとして2005年10月8日の新日本・東京ドーム大会でのチャーリー・ハース、マーク・ジンドラック組との試合を、「世界タッグ王座の初防衛戦」として強行する構えも見せたが、結局はカシンが2本のベルトを肩にかけて入場するに留まった。同試合の入場では「被告人、ケンドー・カシン」とのコールを受け、両手に手錠をはめて花道を歩くというパフォーマンスを行った。 初公判は同年10月5日に行われ、全日本側は早期和解を求めたが、カシン側は「ベルト獲得後に全日本に試合を組んでもらえなかったことが原因」とし、あくまでもリング上での決着を求めたため物別れに終わった。この日の公判において、全日本とカシンとの間にもともと選手契約自体が結ばれていなかったことなどが明らかとなり、全日本の選手管理の杜撰さを露呈する結果ともなった。その後しばらくの間、石澤ないしはカシンとして試合をする際には「武藤久恵対ケンドー・カシン裁判Tシャツ」を着用していた。 前代未聞の「ベルト裁判」の行方に世間の注目が集まったが、「ケンドー・カシンとして訴えられたのだから、マスク着用が認められない限り、(石澤の姿では)法廷に出ない」などと強弁するカシンの言動に代理人弁護士が呆れ、依頼を辞したことで事態は一変。カシンはベルト返還の条件に、元全日の幹部の給与未払いを取り上げ、支払いを要求していたとも言われているが、2006年4月末、2本のベルトが全日本の事務所に送料着払いで送付されたことで一応の解決をみたようである。その後、全日本はカシンが占有していたベルトを加え、従前通り4本のベルトでの選手権試合を行っているが、現在に至るまで、この事件については一切のコメントをしていない。 なお、2014年にフリーとしてチャンピオン・カーニバルに参戦する際には、当時から体制が変わったことと、契約書をきちんと交わしたことから問題ないとコメントし、今後世界タッグ王座を狙いたいとした。
※この「世界タッグ王座のチャンピオンベルト返還訴訟」の解説は、「石澤常光」の解説の一部です。
「世界タッグ王座のチャンピオンベルト返還訴訟」を含む「石澤常光」の記事については、「石澤常光」の概要を参照ください。
世界タッグ王座のチャンピオンベルト返還訴訟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 19:13 UTC 版)
「ケンドー・カシン」の記事における「世界タッグ王座のチャンピオンベルト返還訴訟」の解説
2005年8月2日、全日本プロレスが同団体の所有する世界タッグ王座のベルトの返還に応じないとして、前月に解雇したカシンに対し、ベルトの返還を求める民事訴訟を東京地裁に起こした。 タッグパートナーの永田は王座剥奪時に全日本側の要請に応じてベルトを返還しているため、提訴の対象となっていない。剥奪後、全日本は王座決定戦を行い、太陽ケア、ジャマール組を正式な王者として認め、永田が返還した2本のベルトのみで王座戦を行っていた。 カシンは「王者になればベルトはもらえると思っていた。すべてはベルトを欲しがった永田君が原因。私は踏み台男の踏み台にされました」などといつものカシン節で応酬した。 さらに、同じTJ内に一緒にベルトを獲った永田がいるにもかかわらず、「王座は永田から中西に譲渡された」と一方的に宣言し、中西をパートナーとして2005年10月8日の新日本・東京ドーム大会でのチャーリー・ハース、マーク・ジンドラック組との試合を、「世界タッグ王座の初防衛戦」として強行する構えも見せたが、結局はカシンが2本のベルトを肩にかけて入場するに留まった。同試合の入場では「被告人、ケンドー・カシン」とのコールを受け、両手に手錠をはめて花道を歩くというパフォーマンスを行った。 初公判は同年10月5日に行われ、全日本側は早期和解を求めたが、カシン側は「ベルト獲得後に全日本に試合を組んでもらえなかったことが原因」とし、あくまでもリング上での決着を求めたため物別れに終わった。この日の公判において、全日本とカシンとの間にもともと選手契約自体が結ばれていなかったことなどが明らかとなり、全日本の選手管理の杜撰さを露呈する結果ともなった。その後しばらくの間、石澤ないしはカシンとして試合をする際には「武藤久恵対ケンドー・カシン裁判Tシャツ」を着用していた。 前代未聞の「ベルト裁判」の行方に世間の注目が集まったが、「ケンドー・カシンとして訴えられたのだから、マスク着用が認められない限り、(石澤の姿では)法廷に出ない」などと強弁するカシンの言動に代理人弁護士が呆れ、依頼を辞したことで事態は一変。カシンはベルト返還の条件に、元全日の幹部の給与未払いを取り上げ、支払いを要求していたとも言われているが、2006年4月末、2本のベルトが全日本の事務所に送料着払いで送付されたことで一応の解決をみたようである。その後、全日本はカシンが占有していたベルトを加え、従前通り4本のベルトでの選手権試合を行っているが、現在に至るまで、この事件については一切のコメントをしていない。 なお、2014年にフリーとしてチャンピオン・カーニバルに参戦する際には、当時から体制が変わったことと、契約書をきちんと交わしたことから問題ないとコメントし、今後世界タッグ王座を狙いたいとした。
※この「世界タッグ王座のチャンピオンベルト返還訴訟」の解説は、「ケンドー・カシン」の解説の一部です。
「世界タッグ王座のチャンピオンベルト返還訴訟」を含む「ケンドー・カシン」の記事については、「ケンドー・カシン」の概要を参照ください。
- 世界タッグ王座のチャンピオンベルト返還訴訟のページへのリンク