世界の製材の首都
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/09 02:36 UTC 版)
「ウィリアムズポート (ペンシルベニア州)」の記事における「世界の製材の首都」の解説
現在のウィリアムズポート市域内に初めて建てられた製材所は、1838年にフィラデルフィアのコクラン・バイアーズ社が建てた、ビッグ・ウォーター・ミルと呼ばれたものであった。同社がウィリアムズポートの地でこの製材所を経営していたのはわずか3年であったが、その後これに続くように、ウィリアムズポートには製材所が矢継ぎ早に建てられた。 1846年には、ニューハンプシャー州出身のジェームズ・H・パーキンスによる監督の下、サスケハナ川西支流に「サスケハナ・ブーム」と呼ばれる貯木場もできた。これは、川に地元の山の石を積み上げ、「クリブ」 (crib) と呼ばれる人口の小島をいくつも作って、加工前の材木が下流に流れていかないようにせき止めておくというものであった。この貯木場には3億ボードフィート(約708,000m³)の収容能力があった。貯木場の上流側には、手動の巻揚げ機で制御するシーア・ブーム(sheer boom)と呼ばれる装置が設けられ、貯木場の入口を開閉して、中に入れる材木の量を調節していた。貯木場の下流側では材木が区分けされた。 1850年代には製材所に加えてかんながけ工場も建てられ、製品の幅が広がり、商品価値が高まり、さらなる雇用も生み出された。南北戦争が開戦すると、木材の需要が急激に高まり、価格が急騰し、ウィリアムズポートの製材業全体が一気に潤った。市内には高価な工作機械を揃えた、規模の大きな工場が建ち並ぶようになり、ウィリアムズポートは質量ともに全米最高の木材生産地となった。この頃、ウィリアムズポート市内とその周辺には25か所の製材所があり、中には年間3,000万ボードフィート(約70,800m³)の製材能力を有していた、当時世界トップクラスの製材所もあった。1880年代に入ると、地元で生産された豊富な木材を用いた家具産業も興った。 インフラも整っていった。1856年には、ウィリアムズポートに初めての水道会社とガス会社が設立された。1882年には、ウィリアムズポートに電力会社が設立された。1884年には蒸気会社が設立され、蒸気を利用した暖房が家屋、事務所や工場などに供給された。通信手段としても、1851年に電報が、1879年には電話が導入された。市街地における交通手段としては、1865年に馬車によるストリートカーが開通し、1891年に路面電車に置き換えられた。また、1891年にはオペラ劇場が開館するなど、ウィリアムズポートは文化面でも発展した。 こうした製材の街としての成功と繁栄から、ウィリアムズポートは19世紀中盤から後半にわたって、「世界の製材の首都」と呼ばれた。
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