不倫説への反論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/31 04:22 UTC 版)
「ヘンリー・ステュアート (ダーンリー卿)」の記事における「不倫説への反論」の解説
ダーンリー殺害の動機に関しては、メアリーがボスウェルとの不倫の恋に盲目になっていたため、邪魔な夫を殺害したのだという説が根強いが、この説にはいくつか疑問点が残る。まず、ダーンリーの生前からのメアリーとボスウェルの不倫を主張しているジョージ・ブキャナンは、初めはメアリーに仕えていたが、後にメアリーの敵対者たちに寝返り、彼らの依頼を受けてメアリーに関する数々の誹謗文書を作成し、さらにメアリーの息子ジェームズの教育係を務めることになった人物であり。彼は明らかにメアリーに関して史実と異なると思われる記述もしているため、その記述の信憑性には疑問が残る。 また、ダーンリーやマリ伯にとっては格好の攻撃材料になると思われる2人の不倫だが、メアリーとボスウェルの不倫を彼らが非難したような記録は全く残っていない。またメアリーは、よく自分の宮廷に洗練されたフランスやイタリア人の芸術家たちを好んで招き、彼らとの会話を楽しんでいた。このことやダーンリーを結婚相手に選んだことからもわかる通り、メアリーが好むのは、かつて彼女がいたフランス宮廷の雰囲気を思わせる優雅な男性であり、そういった男性像からボスウェルはかけ離れているように思われる。現に、メアリーがボスウェルに男性として魅力を感じている発言をしたという記録も残っていない。 1567年5月14日に行なわれたメアリーとボスウェルの結婚式の様子を記した記録によると、式はプロテスタント式で行なわれ、メアリーはどこか取り乱した様子であり、ごく内輪の祝宴が始まってもほとんど口を開かなかったという。また、新郎新婦のメアリーとボスウェルは、それぞれ遠く離れた長テーブルの端に座っていた。メアリーの忠実な顧問であったレスリー・ロス司教の記述によると、プロテスタントの結婚の儀式を終えたメアリーは涙を流し、ロス司教を呼ぶと、「神聖なカトリック教会に背くような真似は、もう二度としません」と固く誓ったという。このように当時の彼らの結婚式の記録からは、虜になっていたボスウェルとの結婚がようやくかなって幸せでたまらないというメアリーの様子は見当たらない。 メアリーの敵対者の一人であったカーコーディによると、メアリーはダーンリーが死去した後「女王はボスウェルと離れるくらいなら、フランスやイングランド、それにスコットランドを失ってもかまいません。ボスウェルと引き離されるくらいなら、そまつなペチコート1枚となって、この世界の果てまで行った方がましです」と語ったという。しかし、後にイングランドで虜囚になったメアリーは、「ボスウェルから初めて結婚の申し込みを切り出された時、私は彼の期待を裏切るような発言をしました」と供述している。
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