三重紡績設立者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 15:07 UTC 版)
「伊藤伝七 (10代目)」の記事における「三重紡績設立者」の解説
伊藤伝七10代目は父の9代目とともに三重紡績所を起業した繊維業界の創始者の一人。三重県の政財界の重鎮として大日本帝国期に活躍した企業家である。9代目伊藤伝七と5代目伊藤小左衛門とは従兄弟同士であった。9代目伝七は明治初年に綿糸紡績業経営を志し、鹿島万平(日本初の民間紡績所である「鹿島紡績所」を1872年(明治5年)に創業)に教えを請いた。10代目伝七は子供時代から秀才であり、20歳で副戸長に就任した。父と伊藤小左衛門から紡績業を勧められ、赤羽工作局・鹿島紡績所・富岡製糸所・横須賀造船所等を視察し、1877年(明治10年)官営の堺紡績所に26歳で見習い工となった。紡績技術や繊維技術を見習いで習得した。1880年に小左衛門と連名で二〇〇〇錘紡機の払い下げを出願して許可され、1883年(明治19年)に水力を動力とする三重紡績所を三重県川島村(四日市市川島地区)に創設した。 当初経営が振るわなかったため三重県令の石井邦猷の紹介で渋沢栄一に相談したところ規模の拡大を勧められ、1886年(明治21年)に渋沢の支援で株式会社組織の三重紡績会社が設立され、三重紡績所も同社に合併して川島分工場となる。九鬼紋七・八巻道成(第一銀行四日市支店長)とともに同社創立委員に選ばれ、翌年には委員兼支配人に就任した。技術長には、工部大学校卒の斎藤恒三(のち東洋紡社長)を迎えた。 三重紡績は日清戦争の特需で大きな利益をあげ、明治30年代には三重県と愛知県下の紡績会社を次々と吸収合併して日本屈指の紡績会社となった。1914年(大正3年)に渋沢と協議して大阪紡績(1877年に渋沢が創業)と合併し東洋紡績を設立した。10代目伝七は1916年(大正5年)~1920年(大正9年)まで東洋紡績2代目社長を務めた。その後も1924年に亡くなるまで同社の相談役を務めた。また、四日市商工会議所の副会頭を務めた。1918年(大正7年)三重県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から死去するまで在任した。
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