三重県と愛知県
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/29 07:01 UTC 版)
干拓地事業は1966年に都市近郊の農業地帯としての立地条件を活かして、農業の近代化や経営安定化を図る目的で事業が始まった。当初、国(農林水産省)は地理的な位置関係から、木曽岬の沖合いを干拓するということで干拓地全域を三重県に組み入れるつもりであったが、干拓地は三重県側とは川に隔てられて接しておらず、愛知県側の土地を延長するような形であったほか、愛知県側の土地が含まれている事が分かり、愛知県との間で県境問題に発展した。三重県側の主張は「干拓事業は三重県の要請により着手されたものだから、干拓地は全域三重県になる」というもの。それに対し、愛知県側の主張は終始一貫していたわけではなく、「60ha以上」、「常識線として115ha」、「全面領有」、「両県の地籍から等距離線(愛知県分が49%)」などの主張がなされた。なお、木曽岬干拓地内には愛知県弥富町の地籍が約16ha、三重県木曽岬町の地籍は約34ha、さらに同じ三重県の長島町(現在は桑名市の一部)の地籍が約77ha存在するとされた。県境問題は1989年に干拓工事がほぼ終了した後も続き、実質的に陸地化されていながら法律上は公用水面のままという状態が長く続いたが、1990年、農水省が会計監査院から改善の指摘を受け、1994年、両県が農水省の調停案を受け入れる形でようやく合意に至った。面積は三重県が362.5ha(総事業面積の81.75%)、愛知県は80.9ha(同18.25%)。愛知県の領域は元からの県境である鍋田川から県境を延長して、鍋田干拓地との境界および名古屋港高潮防波堤に沿って細く弧を描くように設定され、伊勢湾に面する南端部のみは両県で半分に分ける形になっている。
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