三浦綾子
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作家の三浦綾子は、1966年(昭和41年)に展覧会で木内に逢って以来、木内にとって親友と呼べる存在であった。夫の三浦光世共々、家族ぐるみでの交友があった。下の名の「綾」が共通することから、2人は旭川で「東の綾に西の綾」ともいわれた。 1977年(昭和52年)に木内が招待出品でギリシャを訪ねたとき、飛行機の故障で引き返したことがあり、翌1978年(昭和53年)にハンガリーへ行く際に、前回の恐怖心から三浦に「万が一の場合は後事を託したい」と伝えたところ、三浦は黙って聞きつつも、「神様はこの世に必要と思う人は決して召しません。先生はまだまだ必要な人ですから、安心して行ってらっしゃい。でも、お話はきちんと承りました」と返した。このことで木内は三浦を、人間の器が自分と違うと感じたという。 三浦は自宅や外出先でも、常に木内の優佳良織を身に着けており、「歩く優佳良織」と呼ばれるほどだった。夫の光世の証言によれば、日本国外への取材旅行時にも、よく木内から譲られた優佳良織の上着を着ており、現地で「手織りの立派な織物ですね」と声をかけられることもあったという。常に優佳良織を身につけているあまり、三浦の方が木内に間違われたことすらあるという。 木内綾「先生とはずいぶん長い間おつきあいさせていただいてますけれど、そう頻繁に会うわけではないし(略)」三浦綾子「たとえ一年に一度しかお会いしなくても、友だちの質としては毎日会っているみたいな……。それどころか、姉妹のように通じ合っている部分があるわね」 三浦光世「(略)家内が木内先生にまちがわれることがあるんですよ。優佳良織を着ているということもあるでしょうが、どこか雰囲気が似ているんでしょうか」 — 「相手が何を大事にしているかわかるのがほんとうの友だちよね」、主婦の友 1983, p. 97より引用 三浦は自身の小説「果て遠き丘」にも優佳良織を登場させ、その美しさを語らせたほどである。 「すてきねえ、ユーカラ織って」(中略)旭川の民芸品であるユーカラ織が陳列されている。「流氷」「秋の摩周湖」「さんご草」などと、テーマのついたユーカラ織の色は、どれも深みを帯びて美しかった。流氷の濃い青、さんご草の赤、それぞれに恵理子の心を捉える美しさがあった。 「ユーカラ織の色って、青色ひとつ出すのに、色を何十種類も使うんですってよ」 — 三浦綾子『果て遠き丘』、三浦 1978, p. 473より引用 また三浦は当初、文学館を作ることを固辞していたが、晩年にパーキンソン病が悪化する中で、木内に「作品を残す場所をつくってほしい」と漏らしたといい、そのことが三浦綾子記念文学館設立実行委員会の誕生、三浦綾子記念文学館の開館のきっかけの一つともなった。三浦の死去にあたっては、木内は「一時は、私も『ぼろ切れ』と言われながらも、一徹に織物を続けてこられたのは、自分に正直でありたいと思う気持ちを人との出会いの中で学んだから」「信じ合える友人と確信を持って言える、希少な人でした」と、その死を悼んだ。
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