三山成立以降とは? わかりやすく解説

三山成立以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 14:45 UTC 版)

熊野那智大社」の記事における「三山成立以降」の解説

長秋記長承3年1134年2月1日条によると、平安時代後期には三山とも天照大神を含む御子神五所王子眷属神四所明神加え現在のような十二所権現祀る形が整った。しかし那智別格滝宮加えて十三権現となっており、康暦元年1379年11月13日の『尼性周田地寄進状写』などに記録残っている。 平安時代末期には鳥羽上皇後白河法皇後鳥羽上皇などが幾度も熊野三山足を運び大い賑わっている。 建仁元年1201年10月19日には後鳥羽上皇那智山参詣しその後建暦2年1212年)に上皇から寄進され熊野新宮領・190石のうち12石が那智社に与えられた。 承久の乱では後鳥羽上皇らが敗れて熊野有力な支持者失ったが、代わって修験道発達に伴い三山御師先達による組織づくりが盛んとなった貞応2年1223年11月19日には一山焼失したが、御師らによって再建されている。 南北朝時代には、熊野勢力勧誘するために両朝から御師宛に護摩供料などの名目寄進が行なわれ、貞和2年1346年8月18日には熊野三山検校道昭准后が、那智山兵部卿律師御房駿河国北安東荘内を安堵した例などがある。 続く室町時代には各地神領荘園からの収入減少し那智山権現でも年貢米駿河国長田安東両荘および美作国勝田荘からのみになったこのため、有力御師先達活動重要さ増し社頭修理なども熊野山伏比丘尼十穀聖などの勧進に頼るようになった文明10年1478年)に畿内への課役による棟別銭那智山造営行なったが、弘治年間十二所権現造営の際は、賦算に貴庶を勧進結縁させている。15世紀後半以降には、山内堂塔社殿修理のために勧進を行う本願所として、妙法山阿弥陀寺浜ノ宮補陀洛山寺をはじめ御前庵主、大禅院、滝庵主那智阿弥理性院といった本願所により造営修造担われるようになり、那智七本願または那智穀屋などと称された。なお、穀屋はこの七本願を指すという見方もある。 天正9年1581年)には堀内氏善那智山への支配強化した事に反発した社家御師の廊ノ坊が武力決起し逆に氏善が廊ノ坊を攻撃し本殿などの社殿焼失している。一方で那智山内の実報(実方)院は堀内氏に付いて那智一山二分され、廊ノ坊側が敗れると同年6月3日一族東学坊などの跡職は実報院に与えられたという。

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