三宗派分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 09:01 UTC 版)
1533年2月の宗教協定でミュンスター市内における福音主義が公認されると、3月3日の市参事会員選挙で、福音派市民が、市参事会員職を独占し、ミュンスター市で福音主義体制が確立された。 しかし、その直後の4月頃から、ミュンスター宗教改革の指導的説教師であり、神学的主柱であったロートマンとその仲間の説教師たちが、幼児洗礼批判を説教し始めたことから、市内の住民は再び宗教問題で分裂することになった。幼児洗礼批判は神聖ローマ帝国で死をもって禁じられていた教えであり、カトリックのみならずプロテスタント諸侯も敵に回さねばならない、政治的に極めて危険な教えであった。そのため、市参事会と、ミュンスターの外交顧問となっていたヨハン・ファン・デア・ヴィーク Johann van der Wieckは、市内でのロートマンの活動を止めさせようと試みた。彼らは8月7日と8日に洗礼と聖餐をめぐるルター派とロートマン派の討論会を開き、その後説教師たちに洗礼と聖餐に関する説教禁止を命じた。彼らはさらに、9月には市内の滞在を禁止したが、説教師たちを追放することはできなかった。 しかし、11月3日から5日にかけて、市参事会率いるルター派、ロートマン派、カトリック派の三宗派の住民が武装し対峙するという、一触即発の状況に陥ったため、市参事会はロートマン以外のロートマン派説教師を市外に追放し、市内でのロートマンの説教を禁止した。さらに、ヘッセン方伯によって派遣されてきたルター派説教師テオドール・ファブリキウス Theodor Fabricius が、聖ランベルティ教会 St. Lamberti で説教を行い、ロートマンから信徒を引き戻した。彼によって起草された教会規則は、市参事会、全ギルド会議、ゲマインハイトによって受容され、市内でのルター派体制が確立されてきた。 市内でロートマン派説教師が、説教などの司牧を行えなくなると、ロートマン派の住民は、一方では個人の家で集会を開くなど、地下に潜って活動した。他方では、ルター派の礼拝式や説教を妨害するなど、実力行使によって彼らの目的を果たそうとするようになった。彼らの活動を抑えようと、12月15日に市参事会が、公然と市参事会やルター派説教師を非難する説教を行った鍛冶屋職人を、全ギルド会議の同意なしに逮捕すると、宗派にかかわらず全鍛冶屋ギルド員が市参事会に押し寄せ、職人の解放を強要した。これにより市参事会の権威は市内で失墜し、ロートマン派の活動を抑えることが不可能になった。 この時期の事件史的経緯については、以下の文献を参照のこと。
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