一二等インターシティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/04 18:53 UTC 版)
「サフィール (列車)」の記事における「一二等インターシティ」の解説
1978年5月28日から、西ドイツ国鉄はIC2号線のインターシティの一部区間に二等車を連結するようになった。ブリュッセル行のサフィール(TEE 20)はTEE扱いなのはフランクフルトからとなり、ニュルンベルク - フランクフルト間は二等車を含む同名のインターシティ(IC 20)となった。 1979年5月27日からサフィールは全区間で二等車を含む列車となり、TEEではなくなった。西ドイツ国内においてはインターシティとして扱われた。 1980年6月1日からは運行区間がブリュッセル - ケルン間に短縮された。このダイヤ改正から国際列車に対しても「インターシティ」の列車種別が用いられることになり、サフィールは全区間でインターシティとなった。1981年5月31日から運行区間はオーステンデ - ケルン間に延長された。1984年6月3日からはベルギー国鉄の創設したインターシティのB線(オーステンデ - ブリュッセル - ケルン)の一列車となり、この区間で他のインターシティとともに2時間間隔のパターンダイヤとなった。
※この「一二等インターシティ」の解説は、「サフィール (列車)」の解説の一部です。
「一二等インターシティ」を含む「サフィール (列車)」の記事については、「サフィール (列車)」の概要を参照ください。
一二等インターシティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/09 16:29 UTC 版)
「ライン・マイン (列車)」の記事における「一二等インターシティ」の解説
1979年5月27日から「ヴァン・ベートーヴェン」は全区間で二等車を含む列車となり、TEEではなくなった。運行区間は双方向ともアムステルダム - フランクフルト間となったが、アムステルダム発列車はヴィースバーデン経由、フランクフルト発列車はマインツ経由なのはTEE時代と同様である。 1983年5月29日のダイヤ改正でオランダ・ドイツ間の国際列車が再編された。この時「ヴァン・ベートーヴェン」は廃止され、ほぼ同じダイヤをIC「レンブラント」(同改正まではアムステルダム - ミュンヘン間のTEE)が引き継いだ。 ヴァン・ベートーヴェンという列車名は、その後以下のドイツ国内インターシティに用いられている。 1985年6月2日 - 1986年5月31日 : ドルトムント - コブレンツ 1986年6月1日 - 1988年5月28日 : ドルトムント - ミュンヘン 1988年5月29日 - 1991年6月1日 : ドルトムント - コブレンツ 1992年5月31日 - 1993年5月22日 : ボン - ベルリン 1999年9月26日 - 2002年12月14日 : ドルトムント - ミュンヘン
※この「一二等インターシティ」の解説は、「ライン・マイン (列車)」の解説の一部です。
「一二等インターシティ」を含む「ライン・マイン (列車)」の記事については、「ライン・マイン (列車)」の概要を参照ください。
一二等インターシティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 05:12 UTC 版)
「インターシティ (ドイツ)」の記事における「一二等インターシティ」の解説
インターシティは1971年の発足当時は一等車専用であった。このころまで、階級意識の強いヨーロッパの一等車利用者は、二等車利用者と同じ列車で旅行することを嫌う傾向があり、TEEやインターシティなどの上位の優等列車は一等車のみで編成されていた。二等車を連結した急行列車はこれらの列車に比べ遅く、設備も劣っていた。 しかし1970年代には、社会の変化により長距離列車の二等車の需要が増える一方で、一等専用の優等列車は人気が衰え始めており、インターシティが一等専用であることは批判の対象となった。そこで西ドイツ国鉄は1975年から、インターシティへの二等車の連結を検討し始め、1976年から一部の列車で試験的に実施した。1979年からはすべてのインターシティが二等車を連結するとともに、1時間間隔に増発された。このネットワークを「インターシティ79 (IC79)」と呼ぶ。
※この「一二等インターシティ」の解説は、「インターシティ (ドイツ)」の解説の一部です。
「一二等インターシティ」を含む「インターシティ (ドイツ)」の記事については、「インターシティ (ドイツ)」の概要を参照ください。
- 一二等インターシティのページへのリンク