ロッキー山脈縦貫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 23:48 UTC 版)
「アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道」の記事における「ロッキー山脈縦貫」の解説
レッドビル(英語版)は、コロラド州の鉱山地帯の中でももっとも生産性の高い場所であった。この地域での鉱業は1859年に始まり、最初は金を目的とし、20年ほど経ってからは銀を目的としたものになった。社長のウィリアム・ストロング(英語版)と共に数名の取締役は、コロラド州およびニューメキシコ州北部の鉱山の町に食料・装備・その他の補給物資を輸送する需要に対して投資しようとした。これを受けて、サンタフェ鉄道は1877年から、プエブロからアーカンザス川に沿って、そしてロイヤル・ゴージ(英語版)に沿って西へと延長しようとした。ロイヤル・ゴージはサンタフェ鉄道とデンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道の双方が通過するにはあまりに狭く、アーカンザス川に沿うボトルネックとなっており、そしてこれ以外にはサウス・パーク地区にたどり着ける合理的な方法がなかった。このため、この峡谷を抜ける線路を建設する競争が始まった。物理的な対決は2社の間で2年に及ぶ低レベルゲリラ闘争となり、後にロイヤル・ゴージ鉄道戦争として知られることになった。連邦政府がこれに介入して1880年2月2日に示談となり、通称「ボストン条約」と呼ばれる協定を結んだ。この協定では、デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道が路線を開通させることが認められ、その路線をサンタフェ鉄道が使用できるように貸し出すことになった。またデンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道は推定140万ドルをサンタフェ鉄道に対して峡谷内で既に建設したものの代金として支払い、またサンタフェへは延伸しないこと、一方でサンタフェ鉄道がデンバーおよびレッドビルへの計画路線を先に建設することで合意された。 また南部へも視野にいれ、ラトン峠を確保するために、当初の2万ドルの出費がトリニダードから南への線路を建設するために1878年2月26日に承認された。この事業の成功にとって、路線の位置は実際の路線建設と並んで極めて重要であった。かつてデンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道の土木技術者であったW.R."レイ"・モーリーは1877年にサンタフェ鉄道に雇われ、最初の仕事として峠を越える経路を密かに調査することを命じられた。この地域での活動が、デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道に峠を越える路線を先に建設されることにつながるのではないかと恐れられていたのである。これに加えてストロングはサザン・パシフィック鉄道が、サンタフェ鉄道のニューメキシコ州への進入を防ぐための法案を準備していることを知っていた。これにくじけずにストロングは、ニューメキシコ・アンド・サザン・パシフィック鉄道 (New Mexico and Southern Pacific Railroad) に対する路線特許を取得すると、ただちにラトン峠にA.ロビンソンを送った。1878年の2月から12月にかけて、作業員はラ・フンタ(英語版)からラトンまでの区間の建設に格闘し、12月7日に最初のサンタフェ鉄道の列車がニューメキシコ州に入った。
※この「ロッキー山脈縦貫」の解説は、「アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道」の解説の一部です。
「ロッキー山脈縦貫」を含む「アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道」の記事については、「アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書からロッキー山脈縦貫を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書からロッキー山脈縦貫を検索
- ロッキー山脈縦貫のページへのリンク