レース・ディレクターとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/21 03:27 UTC 版)
「アンリ・デグランジュ」の記事における「レース・ディレクターとして」の解説
1904年、レース責任者となったデグランジュは、パリの最終ゴール地点をパルク・デ・プランスに定めた。パルク・デ・プランスのゴールは、1967年まで続くことになる。また、同年のツール・ド・フランスでは、総合2連覇を果たしたはずのモリス・ガランを含めて4人が後に失格となって順位剥奪となったが、これはデグランジュがガランに対し、食事を取る箇所ではない場所で摂取していたことが発覚したことで、500フランの罰金を取っていたことがきっかけとなっている。なお、この事件にかんがみ、翌1905年から(1912年まで)ツール・ド・フランスは、現在行われている総合時間制ではなく、ポイント制を導入することになった。また、1919年には、どの選手が総合成績でトップに立っているのかを示すため、ロトのシンボルカラーである黄色を基調にした、マイヨ・ジョーヌを誕生させた。 一方、歯に衣着せぬ言動をしばし発したことで物議を醸したことがある。中でも、1923年のツール・ド・フランスを優勝することになるアンリ・ペリシエをロト紙上で痛烈に批判したことで2人は犬猿の仲の間柄となってしまい、そのことがきっかけとなり、翌1924年のツール・ド・フランス初日のステージが始まる前、ペリシエがマイヨ・ジョーヌを脱ぎ捨てる一幕も見られた。 また、1929年のツール・ド・フランスでは、ヴィクトル・フォンタンの不運なリタイアに加え、優勝したモリス・デワールが当時所属していたアルシオン・ダンロップが、デワールを勝たせるために他のチームメイトに対して、リタイアを促していたことなどが後に分かるや、1930年のツール・ド・フランスからはトレードチームの参加を一切禁止し、国、地域別対抗戦形式に改めるなど、頑固一徹な部分も垣間見られた。 ツール・ド・フランス開催前までは2万5000部程度に過ぎなかったロトの発行部数は、1933年には85万4000部にまで伸びた。 1936年、病気のため、ロトの創業メンバーの一人である、ヴィクトル・ゴデの息子・ジャック・ゴデにレース責任者の座を譲ることになった。1940年8月16日、ボーヴァロンの自宅で死去。 現在、ツール・ド・フランスにおいてその年の最大標高の山岳をトップで通過したものに与えられる特別賞「アンリ・デグランジュ記念賞」(賞金額は5000ユーロ前後)としてその名を残している。
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