ユトレヒト条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/28 15:31 UTC 版)
「スペインなくして講和なし」の記事における「ユトレヒト条約」の解説
詳細は「ユトレヒト条約」を参照 オックスフォード=モーティマ伯爵ロバート・ハーレー率いるトーリー党政府は1710年に成立した。すでに多くの人命と資金が費やされていたため、このトーリー党政府は戦争から撤退しようとした。やがてタカ派のマールバラ公爵が更迭され、代わりにトーリー党のオーモンド公爵が指揮官に就任した。 苦戦していたフランスは講和交渉を歓迎した。それまで講和を妨げていたのは、ルイ14世に対する、武力行使でアンジュー公フィリップをスペイン王位から引きずり下ろすという要求だった。長い交渉の結果、スペインでの譲歩を含む合意がなされ、フィリップが王位を保持する代償としてイギリスにジブラルタルとミノルカ島を割譲した。その後、イギリス軍はフランドルからもスペインからも撤退した。 ユトレヒト条約の内容が明らかになると、ホイッグ党はそれを痛烈に批判した。ジョナサン・スウィフトは『同盟軍の行為(英語版)』というパンフレットを出版してトーリー党政府を弁護した。ホイッグ党はユトレヒト条約をスペインへの裏切りとして扱い、「スペインなくして講和なし」が条約反対のスローガンとして広まった。しかし、議会は結局ユトレヒト条約を承認した。 オーストリアやオランダなどの同盟国は「スペインなくして講和なし」のスローガンを使い続け、戦闘を継続しようとしたが、ロンドンからの資金と軍事援助がない状況では敗北続きとなり、嫌々ながらフランスとの講和に同意せざるを得なかった。戦争の目的自体は達成したが、その成果は数年前に期待できたものよりはるかに少なかった。 フィリップはフェリペ5世としてスペイン王位を認められたが、広大な地域をオーストリアに割譲しなければならなかった。その後、同盟軍はイベリア半島から完全撤退、唯一残ったバルセロナも長い包囲戦の末陥落した。
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