ヤマの絵師に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 04:24 UTC 版)
『明治・大正炭坑絵巻』は市販されず一部の関係者に配布されただけだったが、1962年に田川市立図書館館長の永末十四雄が山本作兵衛と記録画のことを知り、資料の筆写を始めた。永末は山本に1964年(昭和39年)6月から田川郷土研究会が行っていた「炭坑資料を集める運動」を紹介し、山本は11月に炭鉱の子どもを描いた水彩画を収めたスケッチブックを田川市立図書館に寄贈した。 山本の好意と記録画の重要性を改めて知った永末は、約300枚の墨絵の資料性を高めるために、大型ケント紙と岩絵具による水彩画の作成を山本に依頼する。永末の熱意に押された山本は、2日に1枚のペースで水彩画を描き、74歳になる1966年(昭和41年)末までに描いた約260枚を田川市立図書館に寄贈した。これらの活動を筑豊地方の鞍手町で炭鉱夫の取材をしていた上野英信が取材し、1967年(昭和42年)2月にNHK教育で特別番組「ある人生 - ボタ山よ」が放送された。この番組を見ていた講談社の編集者の手で、『炭鉱(ヤマ)に生きる 地の底の人生記録 画文集』が刊行された。永末と上野、木村栄文が墨絵を含めた本格的な画集の刊行を企図し、1973年(昭和48年)に墨絵や水彩画を収録した『筑豊炭鉱絵巻』が刊行された。 「ヤマの絵師」として知られた山本は、1984年(昭和59年)12月19日、老衰のため死去した。92歳没。死後、1985年(昭和60年)11月24日に山本作兵衛翁記念祭が嘉穂劇場で開催された。
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