メルフィ伯領、1046年–1059年
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「ノルマン人による南イタリア征服」の記事における「メルフィ伯領、1046年–1059年」の解説
1046年にドロゴーネはアプリアに入ってターラント付近にてカテパノのエウスタチオ・パラティノ(英語版)を破った。一方、その三弟であるウンフレード(イタリア語版)はバーリにノルマン人との条約を締結することを強いさせた。幸運にもドロゴーネの継承を助け、それによって南イタリアの地にノルマン朝を樹立させることとなったグアイマリオは1047年にドロゴーネに自らの娘であるガイテルグリマ(イタリア語版)を与えて結婚させた。神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世黒王は自らに忠実であるということでアヴェルサ伯領を認め、ドロゴーネを直接の家臣とし、 メルフィのノルマン人にとって最初の正当な称号である「イタリア公及びアプーリアとカラブリアのノルマン人伯」を授けた。ハインリヒ3世は自身の皇后であるアグネスがベネヴェント人から虐待されていたことから、ドロゴーネにベネヴェント征服の権限を授けて帝冠の代理として掌握させた。もっともノルマン人は1053年まではベネヴェントを征服することは出来なかった。 1048年にドロゴーネはコゼンツァ付近のクラチ渓谷(イタリア語版)[要リンク修正]を経てカラブリアへの拡張の指揮を執った。ドロゴーネはカラブリアの征服地を分配して四弟であるロベルト・イル・グイスカルドに入口の守衛としてのスクリバの城を授けた。ドロゴーネは1051年にビザンツの陰謀で暗殺され、短い空位の後に三弟のウンフレードが継承した。ドロゴーネ指導下のノルマン人騎士の反乱はローマ教皇レオ9世 を激怒させており、ウンフレートの最初の挑戦は教皇との対立を処理することにあった。 1053年6月18日にウンフレートは教皇=皇帝連合に対抗する形でノルマン軍の指揮を執った。チヴィターテの戦い(イタリア語版)でノルマン軍は教皇軍を壊滅させてレオ9世を捕虜としてベネヴェントに幽閉し、教皇はそれを即座に甘んじて受け入れた。ウンフレートの治世で残されたものはオーリア、ナルド、レッチェの征服にあり、これ等は皆1055年までには終了した。1054年にピエトロ1世のトラーニ付近の領域を継承したピエトロ2世は同都市を最終的に東ローマから征服した。ウンフレートは1057年に死去して四弟のロベルト・グイスカルドが継承すると自身は直ちに公位におけるより高い称号と引き換えに神聖ローマ皇帝に完全に忠実になり、また教皇の封臣となった。
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