メルフェルデン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 07:37 UTC 版)
「メルフェルデン=ヴァルドルフ」の記事における「メルフェルデン」の解説
メルフェルデンは、ロルシュ・コデックス中 830年から 850年までの間に Mersenualt という表記で記録されており、フランク王国領に属した。メルフェルデンは、時代とともに史料中に以下の表記で記録されている: 1016年 Mersfelt、13世紀から14世紀 Mersevelt、1413年 Merßfeldt、1550年 Merffeld、1573年 Mehrfelden、1614以降現在の Mörfelden。メルフェルデンの教会は、1304年にはすでに「グントホールに支教会をもつ教区教会」となっていた。 メルフェルデン周辺は、中世には「ヴィルトバン・ドライアイヒ」と呼ばれる狩猟場の一部をなす広い森林地域であった。この狩猟場と帝国との関係は狩猟場法で規定されていた。これは1338年に皇帝ルートヴィヒ・フォン・バイエルンがランゲンのマイゲリヒトで制定したものである。この中でこの村はいわゆる 30 ヴィルトフーベン(森の村)の 1つ Mersevelt として記載されている。 この村は交易路沿いの交通の便が良い場所にあったことから、15世紀には税関が設けられるなど交易・交通の要衝に発展した。三十年戦争がこの発展を妨げた。この村は何度も掠奪され、荒廃した。その後ペストがこの町を襲い、1648年に戦争が終わった時には、栄えていた交易地は跡形もなくなっていた。人口が約 500人に達したのはそれから何世紀も経ってからであった。18世紀末にメルフェルデンの人口はやっと約 900人にまで回復した。 1600年にメルフェルデンはヘッセン=ダルムシュタット方伯領となり、1806年からはヘッセン大公国領に属した。行政上、この町は、1820年までアムト・ケルスターバッハに属した。このアムトは1816年からはヘッセン大公国のプロヴィンツ・シュタルケンブルクに属した。1821年に大公国にラントラーツベツィルク制が導入され、メルフェルデンはラントラーツベツィルク・ドルンベルクの一部となった。1832年にさらに組織変更がなされ、クライス(郡)が設けられた。これによりメルフェルデンは、グロース=ゲーラウ郡に組み込まれた。大公国のプロヴィンツ、郡、ラントラーツベツィルクは 1848年7月31日に廃止され、レギールングスベツィルクに改組されたが、1852年5月12日に元に戻された。この1848年から1852年までの間、メルフェルデンはレギールングスベツィルク・ダルムシュタットに属した。その後、今日に至るまでの行政改革のいずれにおいてもこの町の所属は変わっていない 19世紀にこの町は、ベッドタウンとして発展した。1920年代にメルフェルデンは労働者運動の牙城となった。こうした発展は1930年代のナチ党の権力掌握によって終結した。 第二次世界大戦後、1948年の通貨改革によりメルフェルデンは便利な住宅地となった。初めは被追放者や難民の受け容れによって、その後は継続的な人口流入によって急速な人口増加が起こった。これは 21世紀に入るまで続いた。 この町は、1968年3月18日にヘッセン内務大臣により市に昇格した。
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