メルブの終焉(モンゴルによる壊滅)
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「メルブ遺跡」の記事における「メルブの終焉(モンゴルによる壊滅)」の解説
12世紀末も、ホラズム・シャー朝支配下の重要な都市として繁栄を続けたが、1218年に、チンギス・ハーンの要求を伝えた特使を殺害したため、1221年に、チンギス・ハーンの末子トルイ率いるモンゴル騎馬団が復讐のために攻め込んで、100万人を数えたという住民を一人残らず皆殺しにした。メルブの町は廃墟と化し、二度と復興しなかった。ハーンの命令たる「当地の全生命の抹殺」自体が目的であったため効率が重視され、並ばせて崖から落とすなどのベルトコンベア式手法がとられた。人類史上初のシステマティックな大量殺戮とされることがある。
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