メルツェルと機械
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 10:01 UTC 版)
「トルコ人 (人形)」の記事における「メルツェルと機械」の解説
ケンペレンが死去すると、トルコ人は1808年にケンペレンの息子がバイエルン州の音楽家ヨハン・ネポムク・メルツェルに売却することを決断するまで眠らされていた。メトロノームの発明者でもあるメルツェルは、ケンペレンの生前にもトルコ人の買い取りを持ちかけていたが、ケンペレンが20000フランを要求したため、決裂していた。ケンペレンの息子は、この半額の値段でメルツェルに売却した。 トルコ人を手に入れると、メルツェルはその構造を研究し、動くように修理を行った。 1809年、トルコ人と試合をするためにナポレオン・ボナパルトがシェーンブルン宮殿に到着した。目撃者の証言によると、メルツェルが機械を組み立て、トルコ人は試合の前にナポレオンに敬礼した。試合の内容については後年に多くの文献が出版されたが、それぞれ矛盾している。Bradley Ewartによると、トルコ人はキャビネットの前に座り、ナポレオンは別のテーブルに座ったという。ナポレオンのテーブルの周りはロープで仕切られ、トルコ人の近くには近付けなかった。メルツェルは両者の間を行き来し、両者の指し手を伝えた。慣例に反して、ナポレオンはトルコ人に代わって先手を取ったが、メルツェルはゲームを続行させた。その後、ナポレオンは反則の手をさした。その手に気付くとトルコ人は駒を元の場所に戻してゲームを続けた。ナポレオンが2度目に反則の手を指すと、トルコ人はその駒を盤から取り除き、ゲームを続行した。ナポレオンが3度目の反則の手を指すと、腕を振り、盤の上の駒を叩いた。ナポレオンは面白がり、その後は真面目に、投了までの19手を指したと伝えられている。別の説では、ナポレオンはトルコ人に負けて不機嫌になったと言われている。 1811年、メルツェルはトルコ人をミラノに連れていき、ナポレオンの義理の息子のウジェーヌ・ド・ボアルネに面会した。ボアルネはとても楽しみ、メルツェルに購入を持ちかけた。交渉の末、ボアルネはメルツェルが購入した額の3倍の30000フランでトルコ人を買い取り、4年間所持した。1815年、メルツェルは再びボアルネを訪れて、将来のツアーで得る予定の30000フランでトルコ人を買い戻した。 買い戻した後、メルツェルとトルコ人はパリに戻り、Cafe de la Regenceで多くのチェス愛好家と知り合いになった。メルツェルは1818年までフランスに滞在し、ロンドンに移動して、トルコ人や他の機械を使って数多くのパフォーマンスを行った。ロンドンではメルツェルの活動は多く報道された。彼は機械の改良を続け、ついには発声機能を埋め込んで、相手をチェックに追い込んだ場合には「チェック!」と言えるようまでになった。 1819年、メルツェルとトルコ人はイギリスツアーの旅に出た。この際には、後手番を持ったり駒落ちができるという改良が施されていた。この駒落ちの機能はトルコ人への関心を高め、W. J. Hunnemanは駒落ち戦で戦った棋譜を記録した本を出版した。駒落ち戦を除くと、トルコ人はこのツアーで45勝3敗2ステイルメイトという成績を残した。
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